見出し画像

ネガティブな言葉とは無縁な女。

身内だから。

そういった補正など一切抜きにして、僕は祖母からネガティブな言葉を聞いたことが無い。


祖母が誰かからネガティブな言葉をかけられているのも聞いたことがない。

本当にネガティブな言葉とは無縁なのである。

そして祖母に肩書を加えるとすると、世界一の祖母。
これだけなら自分の祖母に誰もが思うかもしれない。(それでも負けない!)

そしてそして、それに付け加えて世界一の姑であると僕は思っている。


父と母の口喧嘩の際も、自分の息子に加担するのではなく、正しいことをしっかりと見つめ、義理の娘である母に味方をしていた。

それもあってか、祖母と母は血が繋がっていなかったが、周りからも本物の親子に間違われるくらい素敵な関係を築いていた。

子どもの頃はそれが当たり前だと思っていたが、こんな幸せな家庭はそう無いだろう。

しかし、僕の家庭が順風満帆な普通の生活を送ってきたのかと言うとそうではない。

祖父と父の関係が上手くいかず、物心ついた時には祖父と父は半ば絶縁状態になっていた。


記憶は無いが、家などでも相当の嫌がらせを受けていたらしい。


それもあり、祖父を抜く僕たち家族一行は、割と新築の家を離れて他に家を借りそこで生活を始めた。

祖母はどうしたかと言うと、なんと僕たち家族についてきた。


共働きの家と言うこともあり、僕と姉の面倒を見ることも含めてこの判断をしてくれたものだと思っている。

そんな祖母は僕が幼少期にの頃に、くも膜下出血と脳梗塞で倒れている。

くも膜下出血で倒れた後は奇跡的になんの後遺症もなく全快し、僕のサッカースクールの電車での送り迎え、わがままな僕との買い物、一緒に温泉に行くなど、体力が必要な事全てをしてくれて、僕は祖母から愛を受けた時間を過ごした。


僕に限っては寝るときも風呂に入るときも常に一緒で、本当に幸せ者だった。

しかし、そんなある日家に帰ると、珍しく姉が慌てていて、祖母の身体が動かないと嘆いている。
祖母もいつもの笑顔で笑って見せるものの、全く身体を動かすことが出来ていない。


救急車を呼び病院に行くと、脳梗塞と診断された。

そこから祖母は後遺症として残った半身麻痺と戦いながら過ごしていく。


田舎も田舎、長野の鹿教湯温泉の湯質は身体に良いと、そこにある鹿教湯温泉病院に入院させたりもした。


しかし、リハビリもむなしく祖母の身体はどんどんと動かなくなり、晩年はほぼ寝たきりではっきりと受け答えも出来ぬまま過ごした。

僕は本当に祖母から大きな愛を受けて育った。

そんな祖母と約束していたのが、「プロサッカー選手になる」。これだ。

サッカーが大好きで、地元のサッカークラブ、アルビレックスの試合も幼少期はほとんど一緒に見に行った。


そして勿論、僕の「プロサッカー選手になる」を誰よりも応援してくれていた。

しかし、皮肉にもそんなサッカーが理由で僕は高校から県外に行き、高卒で海外に行ったりと施設に入居した祖母に会えなくなってしまっていた。


オフで帰省しても、自分の中で思っているような結果が出ていなかったから、それが祖母に後ろめたく張り切って会いに行くことは出来なくなっていた。


祖母の晩年僕はずっとその調子だった。情けない。

サッカーで結果が出なかった理由も、才能が無かったから、実力が無かったから、そんな理由ではない。


どこの練習参加しても海外の強豪と戦っても、全然やれる。
でもプロなんてそんな甘いものではない。

自分のウイークポイントから目を背け、日々の生活で自分に負け、自分の夢から逃げていたのは自分なのだ。


今年で25になるが、やっとこれに気付いたのだ。もし僕が他人で、自分自身に意見できるとすれば「サッカーなんかやめちまえ。」そう言うだろう。
家族にも周りにも迷惑かけっぱなしだ。

それもあって、本当に祖母から段々と距離が生まれていった。


自分は祖母との約束が果たせていない。だから会えない。
プライド?こだわり?そんなものいらないはずなのに。

しかし、最近ではそんな自分への甘さが段々と無くなってきていた。


サッカー選手として若くはないが、ここからでも自分を変えられると本気で思っていた。

色々なご縁があり、本田圭佑の思考に常に触れられることが出来、その流れで入ったチームには年下年上問わず尊敬できる選手、運営責任者、ファミリーたちがたくさんいる。


なんとか祖母に長生きしてもらって、プロになって帰ろう。日々そう思っていた。
しかし、その考えは甘かった。

母から着信とメッセージが入っていて、確認すると「ばあちゃんが旅立つかもしれない。」こう打たれていた。


こんな状況は以前にもあり、どこかまた余命のようなものを言われてから何年か生きるのではないか、そう思っていた。

しかし、祖母は旅立った。
どこか信じることが出来なかった。いなくならないだろうなと心の中で思っていた。

しかし、東京から新潟の実家に戻ると、祖母は白い布団に寝ていて白い布を顔にかけられていた。


ふつふつと実感が湧いてくる。

ばあちゃんが旅立ってしまうのが怖くて、僕は祖母は死なないというカバーを勝手にかけていたことに気が付く。

顔にかけてあった布をめくり、祖母の顔に手を置く。とても冷たかった。


旅立つ前も動けずではいたが、肌に触れると温かく、昔手を繋いでいた時の温もりをよく思い出していた。

その温度差にも驚いたのかもしれない。
祖母は旅立っていたのである。

そこからは、コロナ等の影響、また、祖母の友人がもう90手前で元気ではあるが足が悪い人が多いため、遠くのセレモニーホールなどで行うと来れなくなるという観点から家で葬儀をすることとなり、バタバタと過ごした。

家に挨拶に来てくれる人全員が、祖母に感謝を伝え、本当にお世話になったと感謝して帰っていった。


本当に誇らしかった。しかしその反面そんな祖母に比べて自分は何も出来ていない人間だと自己嫌悪に陥り、そのギャップで苦しんだ。

来る人来る人から、「きさくん(僕の名前)のこといっつも話してたて。」そんなような言葉を投げかけられ、どれだけ具合が悪い時も、子どもだった姉と僕がたくさん食べられるようにと、子どもが大好きな揚げ物などの重めの食事やカレーやシチューを作り、一緒に食べていたという話も聞いた。


本当に自分が情けなかった。

祖母がそこまで頑張ってくれて紡いだ命を、僕は二度寝したり、ダラダラしたり、自主練せずにゲームしたり、今まで無駄にして過ごしてきたのだ。


涙が止まらなかった。
不甲斐なかった。

父曰く、脳梗塞で倒れる前も今よくよく考えてみると、文字が少し汚くなっていたり、色々な場面で異変が出ていたという。


しかし、無理をさせてしまっていたのだ。しんどい中でも我慢をさせていた。
勿論、姉も可愛がられていたが、そこの責任は僕にある。

何年も送り迎えしてくれていた僕のサッカースクールを、どうしようかと無理をさせてしまっていたに違いない、どこまで迷惑をかければ気が済むんだ。


祖母とはもう話せない。冷たい身体に謝ることは出来ても、何の返答もない。

どうすれば祖母に恩返しが出来るのか、泣きながら考えた。


家族に泣いているのを気づかれぬよう、部屋にこもって泣きタオルを顔に巻き付けながら考えた。

もちろん自分の目標ではあるが、ばあちゃんのためにもサッカーで上を目指そう。
固く決意した。

即ちこれは、死生観の押し売りでも悲しい話でも良い話でもない。
決意表明だ。そして、祖母への感謝だ。

天国でもネットが普及していて、これを読んでくれていれば嬉しい。
すこし照れ臭いけど、伝わると良いな。

祖母の死をきっかけに家族や親戚への感謝。死と言うものを更に意識するようになった。



ばあちゃん本当にありがとう。この年になっても愛と気づきを与えてくれた。

本田圭佑はよく言う、ハングリーな人は強い。
ただ、愛をしっかりと受けてきた人間も凄く強い。僕はこれから自分自身で証明していく。

今、これを見てくれた人は全員が僕のメンターと言うことになる。
甘かったら言ってください。

明日が出棺で、祖母の実体はこの世からはいなくなってしまう。
しかし、祖母が僕にしてくれたこと、色々な人に残してきた愛はこの世に永遠に残り続ける。

僕も、サッカーなどを通じて、愛や何かを世界中1人でも多くの人に伝えて、後世をよりよくしたい。
愛がある素敵な人間が溢れる世の中にしたい。

いつ死が来ても良いように、いつ死んでも後悔しないように、常に目標に向かって生きていこう。
周りの人、全ての人を大切にしよう。


ばあちゃん本当にありがとう。またいっぱい笑って、いっぱい遊ぼう。
ゆっくり休んで、天国で大好きな温泉にたくさん入って下さい。
じいちゃんと仲良くね。

乱筆乱文、長文失礼しました。そして、ありがとうございました。
誰かの心に届きますように。

ばあちゃんに愛を込めて。2020/03/27。

画像1


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
スキありがとうございます。僕もスキです…!笑
21
OneTokyoFC副キャプテン。 自分の甘さのせいで中途半端な人生を歩んできましたが、そんな自分が変わりつつあります。自分を変えて世界を変えます。#星稜高校#onetokyo#箕輪編集室#ミノ編#本田圭佑 超える。
コメント (1)
感動した。
cafeに載せちょった😁
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。