実家のダンベル・算数セットのブロック・没個性な人間

 実家に1kgのダンベルがあった。しかし、考えれば考えるほど、僕にはそのダンベルが何のためにあるのかよくわからない。おそらく腕の筋肉を鍛えるためには違いないのだが、人間が扱う道具のほとんどが質量を持っていることを考えると、わざわざ質量しか持っていない塊を別に作る必要はないのではないか。特に2kg以下のダンベルに関しては2Lのペットボトルで完全に代替可能だ。ペットボトルならば片手で持ちやすい形状をしているし、中の水の量を変えることで任意の重さにできる。
 
 しかし、確かにそのダンベルは実家に存在した。この世界には1kgのダンベルという物が存在したのだ。その事実に僕は救われたような気持ちになった。1kgの質量しか持たないダンベルの存在は僕に「唯一無二でなくても存在していい」と言ってくれているような気がしたのだ。僕を含め多くの人間には代わりなんていくらでもいる。誰一人として同じ人間はいないという意味では、そのひとりひとりに個性はあるのかもしれないが、そんなのは方便だ。個性は卓越して初めて価値を持つ。もっと言えば卓越しても価値を持たない個性だってある。僕と同じ個性を持った人なんていくらでもいるし、そもそもその個性に価値なんてないのかもしれないのだ。しかしそんな僕は無価値なんかではない。僕の個性に価値が無いからといって僕に価値が無いとは限らない。この世の中に存在する無数の1kgの道具の中で最も無個性な1kgのダンベルにきちんと役目が与えられているように、無個性であっても無目的でさえなければ、僕は僕の居場所を見つけることができるのかもしれない。

 「人間は生きてるだけで尊い」という言葉が綺麗事に聞こえるのは、尊いという言葉が便利過ぎるからだろう。尊いという言葉を使わずに「人間の価値とは何か」というデリケートな問いに答えなければならないならば、僕は「一個の主体であること」と答えよう。僕は一個の主体だから価値があるのだ。それはさながら、1kgちょうどですらなくただ一個であるという性質しか重要でない算数セットの中のブロックのひとつにすら、小学生が数の概念を理解するのをサポートするという目的がくっつくように、究極的にはすべての物はただ一個でありさえすればいいのかもしれない。無個性な僕もあなたも一個人ではある。それが何のための一個人かは各々が決めればいい。

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