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自意識過剰とその活用方法

ここにいていいという感覚とその逆はどこから生まれるのか。深夜、なんとなくベンチに座っているときにふと、何となくそこにいることに罪悪感に近い感覚を覚えた。

通行する人々が深夜に駅前のベンチに座っている人を見たときに、「行き詰まっているのかな」「家に帰りたくないのかな」などの憶測を呼ばないかと気になってしまったのだ。なぜそこにいるのかを、説明したい気分になった。※完全な自意識過剰

その理由を考えるなかで、人が人を認識するときに、グループが無意識に発生しているのではないかという仮結論にいたった。目には見えない、仮想グループが常に各人の頭の中に発生しているのではないかと。

グルーピングの切り口、単位は多様かつ重なり合っている。見た目から憶測する趣向性、年齢、ファッション、場所や地域、カフェ、サラリーマン、深夜、無限のグループがあたまのなかに存在している。

グループを認定すると、ルールを参照、そこに即していない人やモノ、コト、を発見すると検知。行動を取るかどうかは別にして、違和感を感じるようにできている。

最初に戻って、深夜の駅前ベンチの居心地の悪さは、自分のなかにあった、グループからいつのまにか、逸脱していたからだったのかな、と思う。

もとをたどれば、学校におけるエリート量産型、同調圧力教育というよくある結論になるのかもしれない。単純に悪いことではなく、グループをまず認識して、そこから意図的に脱出すれば、なにか新しいものが生まれる近道になるのではないかな、とも思った。

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