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川本 京佳「繋がりの連鎖」

1.自然豊かな場所で、フィットネス

京都府との府境に位置し、町の中央部を流れる清流・水無瀬川をはじめ、町内のいたるところに豊かな自然が残る大阪府三島郡島本町。

閑静な住宅街の中にあるフィットネス施設「Fitness make a BOND」を運営しているのが、昨年よりこの町で暮らす川本京佳(かわもと・きょうか)さんだ。

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川本さんは、フィットネスクラブでインストラクターとして長年働いた経験を活かして、3年前から島本町に自身の店舗をオープンさせた。

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人口3万人ほどの小さな町に、なぜフィットネス施設なのだろうか。

しかも通っている人たちは、高齢者や身体に痛みがある人、産後ママ、小さな子どもたちなど通常のフィットネスクラブとは異なる客層の人たちばかりだ。

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そして、「めちゃ救われた、生きる希望を感じられるわ」と利用した人から次々と喜びの声が届いている。

いったいどんな施設なのだろうか、川本さんに詳しくお話を伺った。


2.父のようになりたい

1979年に大阪府高槻市で2人兄妹の長女として生まれた川本さんは、小さい頃から人見知りで、思ったことも口に出せず我慢してしまうような大人しい子どもだった。

「家族や親戚とコミュニケーションを取るのも辛くって、欲しい物を目で訴えてたんです。母はそのことに気づいてたから、コンビニで私が棚の奥にコッソリ隠していたものが、後日クリスマスプレゼントとして届いたこともあります」

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いつも相手の顔色を伺うことが多かったが、そのときに培った観察眼は現在の仕事に役立っているようだ。

幼少期から身体を動かすことが好きで、成長するにつれてスキーやキャンプなどのアウトドアに熱中した。

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小学校2年生ごろ、友だちとの痴話喧嘩が原因で2年ほど登校拒否をしたこともあったが、誕生日会ではたくさんの友だちが集まってくれるなど、自身の認識とは裏腹に周囲からは「明るく活発な子」と見られていたという。

中学校からはバレー部へ所属した。

あまり勉強は得意な方ではなかったが、体育や音楽などの副教科は好成績を収めていた。

高校は隣町の島本高校へ通い、ここでもバレーを続けた。

相変わらず、人見知りは改善されなかったものの、クラスでは皆が嫌がることも率先してやってのけた。

応援団などをまとめ上げる「総団長」の役をしていたことなどから、周りからは何でも先頭切ってやっているように見えたようだ。

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ここで初めて島本町の豊かな自然に触れ、町の魅力を肌で感じるようになった。

いっぽうで、父親が中学校の保健体育の教師として働き、バレー部の顧問をしていたこともあり、「私も運動を通じて人生論を伝えてみたい。父のような体育教師になりたい」と憧れを抱くようになった。


3.転々とした日々

勉強が苦手だったため、高校卒業後は、大学進学ではなく大阪市淀川区にある大阪リゾート&スポーツ専門学校へ進学した。

運動の基礎理論や体の仕組み、心理学や栄養学、スポーツクラブの運営方法などを学び、エアロビクスインストラクターを目指すようになった。

卒業時には、「健康運動実践指導者」の資格を取得し、尼崎市にあったフィットネスクラブへ就職した。

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働き始めて3年目に突入した22歳のときには、多くの仕事を任されるようになり、ついには過労で身体が悲鳴を上げてしまった。

通院の結果、ドクターストップを告げられたため、インストラクターの仕事を退職。

その後は、新聞社の事務や営業、早朝にコンビニでバイト、工場での仕事など、これまでとは異なるさまざまな職種を転々とした。

10年間の間には、デスクワーク中に、初めての「ぎっくり腰」を経験。

また、生活習慣の乱れから子宮内膜症を患い、手術も受けた。

子宮内膜症については自分で調べることができたお陰で、小さな傷跡で手術を終えることができたが、「そうでなきゃ10cmほどお腹を切られていたかも知れません」と語る。

こうした経験が健康知識の大切さを再認識するきっかけになったようだ。


4.独立への想い

27歳のときには実家へ戻り、今後の人生についてじっくりと想いを巡らせるようになった。

それを黙って見守ってくれていた母親の深い愛と、自分が安心できる居場所の必要性を強く感じたようだ。

考え抜いた末に、再びフィットネスの仕事に戻ることを決意。

29歳から9年ほど、大手フィットネスクラブで働いた。

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「お客様から『ありがとう』と言ってもらえることに対して幸せを感じたり、そこで必要とされていることに対して喜びを感じたりしてました」

仕事をしながら、健康寿命の延伸のため、様々な分野で活動する健康管理のスペシャリストである「健康管理士」の資格も取得。

働いていくうちに、高齢者にとって、計画立てて通う必要のあるフィットネスクラブは、敷居が高く、代わりに気軽に行ける接骨院や整形外科へ行き、高齢者たちが井戸端会議をしていることに気づいた。

「そもそも、薬や治療を受けただけでは根本的解決には繋がらへん。もっと誰もが気軽に集まれて、健康になれる場所づくりはできへんやろうか」と、ふつふつと独立への想いは募っていったようだ。


5.BOND誕生

転機となったのは、ある特別養護老人ホームで、ひとりの高齢男性に出逢ったこと。

その男性は「1泊で終わるから」とヘルニア手術を勧められ、手術をした結果、足に痺れが出て更に状態が悪化してしまった。

再手術を受けたものの、今度は立つことができなくなり、車椅子での生活になってしまった。

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「あのお爺ちゃんは、手術を受けんかったら健康でいられたかもしれん。手術にたどり着くまでに予防や改善などできることはあったし、いったん寝たきりになったら自分の好き勝手には生きれなくなり、自分の意志を貫けんようになることだってある。もっと早くに出逢っていたら、力になってあげれたかも知れんかったのに。不健康になってしまう人をひとりでも多く救うためには、もっと私が活動をしていかなあかん

そうした使命感を抱いていたとき、運命の歯車が合わさるかのように、兄が経営する店に来ていたお客さんから独立の提案と兄の後押しを受け、川本さんは独立することができた。

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英語で「きずな、結束、結合」を意味する言葉である「BOND」を兄が発案し、店名にした。

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特徴的なのは、フィットネスクラブへ勤務していた時代に学んだ「ファンクショナル・トレーニング」の考えを元にしているということだ。

ファンクショナルとは「機能的」という意味で、関節や筋肉など、体の各部位に、本来の役割を思い出させ、眠っている運動能力を引き出すトレーニング法として知られている。

川本さんは一人ひとりの身体の状態を見つめ、姿勢の歪みや歩き方の癖などに対して、アドバイスを送っている。

場合によっては考え方の癖なども見つけ出したり、親身になって相談に乗ったりなど、心のケアも行うことだってある。

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ある日の昼下がりには、ここへ集ってきた高齢者の人たちが親子連れの子どもの面倒を見てくれている。

一時的にも子どもの手を離れたお母さんは、ようやく自分を見つめ直す時間がもつことができる。

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こうした誰もが幸せになる場を、川本さんは現在進行形でつくり続けているのだ。

進行形を表す接尾辞「ing」は、「Bond」と結びつくと、「Bonding」となり、「仲間意識」という意味へと変化する。

この場所が素晴らしいのは、利用する人たち一人ひとりに連帯意識が芽生え、まさに自分たちの居場所となっていることだ。

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誰もが生きづらさを抱える現代において、必要なのはこうした駆け込み寺のような敷居の低い空間なのだろう。

「将来的には、島本町民の健康寿命を伸ばしたいんです。認知症やヘルニアの人とかって、対処法によっては改善する余地があるんですよ。健康にしても病気にしても正しい知識を知って“最期のときまで自分らしく生きれる人”が1人でも多く増えて欲しいと思っています」

小さな町から発信を続ける川本さんの取り組みは、いつか大きな輪となっていろいろな町や人を繋げていく。

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そんな日が来るのは、そう遠くない未来なのかも知れない。


https://note.com/bond_kyoka/

https://mobile.twitter.com/joy8supporter3


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