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たった一冊の本が永遠の生命をたたえて、世界を変革していくことがある

いよいよ小さな革命にのりだすが、すでにその理論的根拠といったことは「note」に植え込んであるが、ここでもう一度、自分が立つ地盤を固めるためにこの苗木を植え込もう。

たった一冊の本が世界を変革していくことがある

毎年おびただしい本が刊行される。それらはすべて採算が取れると踏んで刊行されるのであって、少なくとも数千部、さらに数万部の大台にのせ、あわよくば数十万部を目指し、その究極の目標がベストセラーである。本は売れなければならない。売れる本だけが価値をもたらす。売れる本によって本を作り出す人々の存在が確立されていくからである。これがこの世界を絶対的に支配している思想でありシステムであり、したがって数十部しか売れない本は価値のない本であり、数部しか売れない本はもう紙屑同然のものということになる。

しかし本というものは食料品でも商品でも製品でもなく、まったく別の価値をもって存在するものであり、たった数部しか売れなかった本が、数十万部を売った本よりもはるかに高い価値をもっていることなど枚挙にいとまがない。ベストセラーなるものの大半が一読されたらたちまちごみとなって捨てられるが、たった五部しか売れなかった本が、永遠の生命をたたえて世界を変革していくことだってある。

この視点にたって創刊される「草の葉ライブラリー」は、たった数部しか売れない本に果敢に取り組み、独自の方式で読書社会に放っていく。荒廃して衰退していくばかりの読書社会に新たな生命の樹を打ち立てる本である。閉塞の世界を転覆させんとする力動をもった本である。地下水脈となって永遠に読み継がれていく本である。

一冊一冊手作りの出版のシステムを確立していく

これら数部しか売れない本を読書社会に送り出していくために、その制作のシステムを旧時代に引き戻すことにした。旧時代の本とは手書きだった。手書きで書かれた紙片が綴じられて一冊の書物が仕上がる。その書物を人がまた書き写し、その紙片を束ね、表紙をつけて綴じるともう一冊の書物になった。こうして一冊一冊がその書物を所望する人に配布されていった。

この手法を現代に確立させるための最上の道具がそろっている。その作品をコンピューターに打ち込み、スクリーンに現れる電子文字を編集レイアウトして、プリンターで印字し、簡易製本機で一冊の本に仕立てる。これは驚くべき発明である。この機器が登場することによってだれも本が作れるようになった。その工程はすべて手作りである。その一冊一冊が工芸品のように制作される。

大量印刷技術によって、複雑なる販売流通によって、売れる本しか刊行しない、売れる本しか刊行できない現代の出版のシステムに反逆するシステムである。この旧時代的手づくり工法によって、真の価値をもった作品が新たな生命力を吹きこまれて一冊の本となって読書社会に送り出される。新しい時代を切り開く出版のシステムの誕生である。

小さな革命に着手したぼくに小宮山さんからエールが届けられた。少数派へのエールである。ぼくたちの戦いは蟻が巨象に立ち向かっていくようなものだ。しかし蟻にだって地平を切り拓くことができるのだ。

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 長年にわたって「陽(ひ)の沈むこと無き」大英帝国の栄光を背負いつづけた大宰相ウィンストン・チャーチル(一八七四~一九六五年)が遺した「鉄のカーテン」という言葉は不朽の名言でした、が、もう一つの名言は、ともすれば忘れられがちです。その最晩年に最大の植民地インドの独立を迎えた時のことです。彼は無念の涙をにじませながらその感慨を呟いたということです。「あの裸の男一人にわれらは敗れた!」と。

 裸の男とは、言うまでもなくかのマハトマ・ガンジーです。彼こそは長年ほとんど裸身で暮らし、お供には一頭の山羊を引きつれ、素朴な糸車で綿糸を紡ぎながら、「インド人はこのようにして清貧の生活をつらぬきつづけるならば、遠からず英帝国の羈絆(きはん)を脱しうるであろう」と、身をもって示しつづけたのでした。

 果たせるかな、インドは英本国ランカシア綿業の支配を次第に脱し、第二次世界大戦後の四七年にはついに輝かしい独立を達成しえたのでした。そんな現代史上のドラマを回想するたびに、あの「裸の男」が示しつづけた少数派の役割と栄光とを偲ばすにはいられません。そして、そんな心情にも真っすぐに通じるわが国の偉大な歌人土屋文明の詠歌を、昨今特に口ずさまずにいられないのです。
乁少数にて常に少数にて在りしかばひとつ心を保ち来にけり‥‥

 それというのも、最近になって、戦後半世紀に積み重ねてきた民主主義的な政治文化上の諸実績を、ものの見事に覆す諸改悪が、いかなるファシズムでさえもが成しとげなかったほどの圧力によって、次々と実現して行くではありませんか。単純極まる多数派の暴力支配を眺めながら、思わずも切歯扼腕の思いで唇を噛みしめる人びとの胸中に、ともすれば少数派の無力感がみなぎり、あげくの果てに政治的(ポリティカル)無関心(・アパシー)という絶望感さえもが宿りがちな状況であります。

 けれどもわが日本民族にとって、これほどの政治的暴力を耐えぬく体験は初めてなのでしょう。ガンジーが身をもって示しつづけた少数派の忍耐と楽天主義を、ゆったりと身につける機会が初めて訪れているとも言えましょうか。私たちの多くは、少数派の立場がやがて次第に多数派へと転じる日を期待するという長年の進歩派的図式(シェーマ)に馴れ過ぎた嫌いがあります。けれども、少数派には少数派本来の役割があって、その大切な役割はめったに手放せないはずです。

 人体に例えて言えば、少数派とはかの動脈に似ています。健全な血流をトキトキトキ……と伝えて、人体の営みの健やかさを鼓動のように何時でも自覚させてくれるのです。そんな少数派の信号が弱まり途絶える時には、人体そのものに死が訪れます。ともすれば少数派から多数派への転身を望む者も生じがちです。ある種の宗教団体の如く政治団体化を遂げて、宗教として命脈を自ら進んで断ち切るケースも生じています。

 けれども今や日本の少数派は少数派そのもとして、鼓動高鳴るべき時を迎えているはずです。現在(いま)こそ少数派の誇りを守りぬくことで、日本人の不屈なモラルが鍛えぬかれようとしているのです。この輝かしい現在こそ、おおらかに胸を張って少数派謳歌を示威すべきでしょう!

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