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そのとき、一瞬にして恋に落ちた、その恋はいよいよ深くなるばかりだ

武満徹が亡くなったのが1996年だから、もう25年の月日が流れ去ってしまった。しかし彼の残した音楽は不滅で、ベルリン・フィルやボストン・フィルといった世界の名門フィルがしばしば彼の作品を演奏している。

「系図──若い人達のための音楽詩」(Family Tree –Musical Verse for Young People)という作品がある。ニューヨーク・フィルが創立150周年を記念して武満に委嘱した作品である。いかにこの作品に取り組んだかを武満は次のように記している。

「題名がしめすように、この曲の主題は家族というものです。ズービン・メータさんから「子供のための音楽を書くことに興味はないか」と問われ、その時は考えもしなかったことでしたが、この騒騒々しさだけが支配的で、ほとんど人工の音に浸っている日常生活を送っている、特に若い人たちのために、なにか、穏やかで、肌理のこまかな、単純な音楽が書いてみたくなったのです。そのときすぐに頭に浮かんだのが家族というテーマでした」

 そして武満は谷川俊太郎の長編詩をテキストにする。その長編詩は少女が家族を描くという視点になっていて、「むかしむかし」から始まって、「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おとうさん」「おかあさん」と展開され、最後に十五歳になった少女が世界にのりだしていく景色を描く「とおく」という構成になっている。その詩がどのようなものか、最後に語られる「とおく」という一章を転載してみる。

とおく
わたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもう
ただしくんよりもとおくにきたとおもう
ごろーくんよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもう
もしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりも
ごろーはいつかすいようびにいえをでていって
にちようびのよるおそくかえってきた
やせこけてどろだらけで
いつまでぴちゃぴちゃみずをのんでいた
ごろーがどこへいっていたかだれにもわからない
このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう
しらないうちにわたしはおばあちゃんなるのかしら
きょうのことをわすれてしまって
おちゃをのんでいるのかしら
ここよりももっととおいところで
そのときひとりでいいからすきなひとがいるといいな
そのひとはもうしんでもいいから
どうしてもわすれられないおもいでがあるといいな
どこからうみのにおいがしてくる
でもわたしはきっとうみよりもとおくへいける

ニューヨーク・フィルの委嘱作だから、この日本語を英語にしなければならない。谷川俊太郎が刻み込んだ詩は次のような英語になっている。

A Distance Place
I think I have come farther than Yotchan,
father than Tadashi.
I think even farther Giro, my dog, and father than mam
And possibly farther than both my dad and great grandpa
Goro left home one Wednesday
and came home late the next Sunday night.
He was thin and all covered with mud
and kept on lapping up water for long time.
No one know where he was.
If I keep on walking like this where will I end up?
Will I wake up and find myself an old woman?
Will I have forgotten all about today
and be sipping tea
in some place even farther off than here?
If so, I hope there’d at least be one person with me I could love
It doesn’t matter even if he’s dead.
I only wish I would have an unforgettable memory of him.
The smell of the sea comes in from somewhere.
but I’m sure I can go farther than the sea.

そして、ぼくが手にしているCDは小沢征爾盤である。手兵の「サイトウ・キネン・オーケスラ」で奏するのだが、この語り手になったのが征良だった。ぼくは一瞬にして恋に落ちた。彼女の朗誦に、彼女の美しい英語に。それはなにもかも武満が仕掛けた魔術のなせるわざだった。武満が紡いだ旋律はこよなく美しい。

そのCDにはもう一曲、「My Way of Life──私の生活作法」という曲が吹き込まれている。
「この曲は、詩人の田村隆一の短いエッセイに想を得て作曲された。作曲家を志した頃、私は、重症の結核で、たえず死というものに脅かされていた。そして現在は、健康であっても、死は以前よりもずっと間近にあり、それはおそれるよりは、むしろ、親しいものとして感じられるような年齢になった。私は、現在、ごく素直に自分のうたを親しい友たちの前でうたうような気持ちで、この作曲を終えた」
この曲もまた言葉が宇宙と交響するように作曲されている。魂のそこに響いてくる名曲である。

My Way of Life

Baritone(バリトン)
I was once asked to write about “my way of life”
The expression puzzled me. I supposed a cat has its way of life, and a dog must have its one. So I composed the following poem.

Chorus(合唱)
I like a tree because it is mute.
I like a tree because it doesn’t walk or run around.
I like a tree because it doesn’t yell about love or justice.

Is this true?
Is it really so?

Baritone(バリトン)
To a discerning eye.
A tree is whispering –in its calm, soothing voice.
A tree is walking –toward the sky.

A tree is running as swiftly as lightning—into the earth.
True, a tree doesn’t yell, yet
A tree is
Love itself, Otherwise, why would birds come flying
To perch on its branches?
It’s justice itself.
Otherwise, why would its roots suck up subterrancan water
To return it into the air?

Chorus(合唱)
Green sapling
Gnarled old tree
No two trees are the same.
No two trees are wake.
In the selfsame starlight.

Tree
I love you deeply.
‥‥‥‥‥‥‥

田村隆一の刻み込んだ日本語はこうである。

私の生活作法
生活作法ということを聞いてぼくはびっくりした。
猫には猫の生活があり、犬には犬の生活作法があるだろう。
そこでぼくはこんな詩を書いてみた。

木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走したりしないか好きだ
木は愛とか正義とかわめかないからすきだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空にむかって

木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それがなかったら小鳥がとんできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ
それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない

若木
老樹
ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光のなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ
‥‥‥‥

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