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『草の葉」の詩想  酒本雅之  3

 
かけがえのないものを失う悲しみを知った少年が、「死」という一語を手がかりに詩人として巣だつ次第を歌う「いつまでも揺れやまぬ揺籠から」(一八五九年)は、『草の葉』のペルソナがもはや「ぼく自身」ではないことを明言している。
 
だが「経験」を失った詩人は何を歌えばいい。喪失の悲しみを歌い、失われたものへの郷愁を歌うしかあるまいが、すでに感覚から隔離され、「反省」の対象になってしまった「デモクラシー」は、一個の観念に変質せざるを得ない。たとえば「軍鼓の響き」詩群中のある詩はこんなふうに結ばれる、「そして何よりもまず歌うのは、……/全体という理念の歌、……/それからさらに合州国に寄りつどう一つ一つの州の歌」。もはや詩人は個々の奇跡に見とれることなど念頭にないらしく、ひたすら「全体という理念」をめざす。かつては個別を一つも残さず「愛撫」していれば、「全体」はおのずから成就するはずだった。ところが今は個別ぬきで、全体そのものが「理念」として「何よりもまず」求められる。現に「合州国に寄りつどう一つ一つの州」は後まわしだ。
 
南北戦争はたしかに合衆国分裂の危機たった。しかしホイットマンにとっては、今は追い求めねばならぬ理念となった「デモクラシー」を、ふたたび現実世界の日常として呼び戻せるかもしれない好機でもあった。彼が開戦直後の「ノートブック」に乱れた生活を一新する決意を書きつけ、あるいは「のぼってこい、おお、昼たちよ」のなかで、「おお、嵐たちよ、おかげでわたしは元気になった」と率直に歌っていることなどからも、彼がこの戦争にいだいた期待感が察せられる。
 
ホイットマンが「看護者」として若い傷病兵の看護に献身したことも、むろん彼の男性への「愛着」だけで説明できるものではない。兵士たちとのあいだに彼が結ぼうとした親密な絆は、かつて彼が「経験」として成就していたデモクラティックな状況の再現をめざす試みであり、その試みの成果はかつての状況のいわば雛型、あるいは模型だったと言えなくはない。仮設のテントや病院のベッドを次次と訪ね歩き、そのたびに親身な看護を繰り返すのも、かつてすべての個別を排除せず差別せず限りなく愛し得ていたときの充実した状況を、もう一度わが手にしたいという衝動がどこかで働いていたからではないか。「もの言わぬ壮飃な太陽がわたしは欲しい」の第二節で、「さまざまな顔と街並みがわたしは欲しい……/マンハッタンの顏と目を、いつまでもわたしに」と、かつて親しんだ都会の細部を一つ一つ数え上げては欲しがっていくことにも、明らかに「ぼく自身」の蘇生を願う思いが読みとれる。
 
だが「欲しい」と願うこと自体が、すでに「経験」ではないことの証だとすれば、願いが成就する見こみはまずなさそうだ。回復不能の楽園を願望せずにはいられないところから、六〇年代のホイットマンのかずかずの抒情詩が生まれる。前にあげた「いつまでも揺れやまぬ揺籠から」は言うまでもないが、有名な「先頃ライラックが前庭に咲いたとき」も、こういう状況を視座に収めて読まれるべきだろう。この詩に通底する深い喪失感は、暗殺されたリンカン大統領個人にかかわるだけのものではない。大統領の死はいわばきっかけであり、そのことは通り過ぎて行く棺にライラックの枝を捧げながら、詩人がはっきり断わっている、「あなたのためばかりでなく、ひとりのためばかりでなく、/花びらと緑の枝をすべての棺にわたしは届ける」。
 
そう言えば詩人が追悼の対象を「わたしの愛する人」と呼び、ついに個人名で名ざしすることがないのも、おのれの喪失感が個人に収斂しきれないものであることに気づいていたからにちがいない。現に七節では呼びかけの対象が「おお、すこやかで聖なる死よ」と、喪失の状況そのものに変わる。南北戦争がホイットマンにかつての楽園の記憶を蘇らせたことは前に述べたが、戦争の終結とリンカンの死とは、それが所詮擬似体験でしかなかったことを思い知らしめ、経験としての「デモクラシー」の喪失という有無を言わさぬ現実に彼を突き戻したのだ。


 戦後のアメリカ社会は、北部が勝利したことで資本主義主導の再編が始まり、南部の奴隷制や西部の自由農民社会を制して、次第に資本主義的原理が支配的となった。ホイットマンが一八七一年に出版した論文「デモクラシーの将来」で繰り返してアメリカ社会の物質主義を嘆き批判するのも、戦後の現実と「ぼく自身」の伸びやかな「認識」との決定的な落差を思えば無理からぬことだ。かつて個別は「奇跡」として限りない奥行きを持っていたが、今はのっぺらぼうなものでしかない。
 
もっともこの論文のなかでも、ホイットマンは久しぶりに訪れたニューヨークやブルックリンの光景を一つ一つ列挙している。『草の葉』初版の詩想が健在かと思えるほどだが、しかし彼はその魅力を肯定しながらも、しかしこれは「表面」のことで、実はいちばん大切なものが欠けていると深刻な危機感を訴えるのだ。しかしたとえば夏草をつくづくと眺めやるときの「ぼく自身」には、「表面」と内而というような区別はそもそも存在していなかった。
 
魅力があるのは「表面」だけと捉えるホイットマンの新しい感じかたには、戦後のアメリカ社会の物質主義に対する彼の不満が表われている。個別が彼の「愛撫」を受けいれず、いのちある存在であることをやめて、ただのものになってしまったことへの、やるせない孤独感が表われている。「もの静かな辛抱づよいクモ」は新しい社会のなかで行き暮れた彼の状況の実にみごとな象徴だが、その状況に対して彼が持ち出すのは「個性主義」という一片の理念でしかない。その実効性をホイットマン自身がどこまで信じていたかさだかではないが、そのことよりも「デモクラシー」を「経験」として享受し得ていた頃の残像が、おそらくこの発想の土壌にはある。現実にはこの理念も所詮「クモ」の繰り出すかぼそい糸のひとすじにすぎまいが、徒労とは知りつつ現実世界に、それが失ったものを思い出させようとする絶望的な試みだったのではないか。
 
同じことをもう少し広い視座から言い直せば、「もの静かな辛抱づよいクモ」に象徴されるホイットマンの孤影は、同時に「ジヤクソニアン・デモクラシー」が醸成したアメリカの楽園の終焉の象徴でもあった。時あたかもアメリカのフロンティアの消滅が公示され、アメリカン・ドリームが変質の時を迎えようとしていた。
 
以上限られた紙幅のなかで『草の葉』の世界を織りなす詩想の構造を素描してみた。文字どおりの輪郭にすぎず、論証と展開は今後の課題とさせて欲しいが、ともかく今は推測も含めて、自分の考えを率直に述べてみた。
 
訳者はかつて同じ岩波文庫で「草の葉」の全訳を刊行したことがある。だが四半肚紀以上もの時問が経過して、若い頃の自分の仕事にさまざまな不満や反省を感じるようになり、まだ余力が残っているあいだにできる限り良いものにしておきたいと考えた。旧訳を徹底的に見直し、むしろ新訳のつもりで取り組んだが、少なくとも今の自分としては精いっぱいのものができたと思いたい。旧訳の折、さまざまな事情から訳者として名を連ねて頂いた今は亡き杉木喬、鍋島能弘両先生、若い頃から刺戟を与えつづけて下さった常田四郎氏、それに岩波文庫編集部で旧訳の折(そして今回もまた)親身にお世話頂いた永見洋氏と、改訳の機会を与えて下さった同網集部の平田賢一氏に心から謝意を申し述べる。
           一九九七年初冬         酒本雅之



 
 
 

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