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小宮山量平さんに送った最初の手紙  やがて現れる大きな日本の物語

 小宮山さんは、児童文学の延長として、国民文学の創造を訴えてきた。小宮山さんのいう国民文学とは、例えばユーゴーの「レ・ミゼラブル」であり、ディケンズの「オリバー」であり、トゥエンの「トム・ソーヤ」である。民族の歌というべきそれらの物語によって、人々は自立的精神を育てていく。物語に登場してくる人物たちに自己を重ねあわせることによって、読者もまた理想を昔負い、挫折と絶望から立ち上がり、再び高き峰に向かって歩きだしていくのだ。勇気と力を与えるロマンだ。物語とともに自己の成長と重ねていくウィルドウンクスロマンである。

 私は日本の文学が力を失っているその一つは、どうもこの物語をつくりだす力を失ってしまったからだと思うのだ。今やなかなか良質の物語が生れてこなくなってしまった。それは力のある物語作家が生まれてこないということもあるが、さらにその底には読者が物語を要求しなくなったということにもある。われわれの生きる時代は、ひたすら経済を巨大にすることであった。経済的価値を追及することこそ生きる目的となってしまった。人々の主な関心はいかに豊かな生活をするかであった。いかに高給をとるか、いかに安く家を購入するか、いかに子供を偏差値の高い学校にいれるか、いかに税金を逃れるか、いかに金をもった結婚相手をみつけるか、いかに憎き人間を殺すか、いかに溜まる一方のストレスを発散するか、いかにぶくぶくと太った体の体重を落とか、なのだった。人々が求める本といったら、これら即物的で生理的な欲求をすぐに満たすことのできる効率的な本であった。いかにして生きるべきかということを書いた本は、もはや邪魔なものなのだ。日本人はひたすら即物的になり現金になり成金になっていく。

 物語というものは、人はいかに生きるかという人類の永遠の謎をはらんで、とうとうと流れていくのだ。「千曲川」もまた人はいかに生きるべきかという謎の物語なのだ。この謎のなかに読者を巻き込むことによって、日本の魂を蘇生させていく。理論社に駆けよる児童文学作家たちに、小宮山さんはそのことをはげしく問いかけてきた。民族の歌を書き上げよ、現代の神話を創造せよ、と。しかしそのはげしい問いに、しかと応え大いなる作品に結実させていった作家たちはほんのわずかだった。いやひょっとすると、小宮山さんの思いにかなう作家は一人もいなかったかもしれない。しかしまだ小宮山さんはあきらめてはいないのだ。その大きな仮説と、大きな理想を宿した作品を刻み込む作家がまだいるのだ。小宮山さんその人だった。

 おそらく「千曲川」は、小宮山さんの胸底深く、二十年、三十年、いやその全生涯のなかで育まれていたに違いない。その歌を、ようやく自身の手によって、刻み込むときがきたのだった。自らの文体を、喜の寿の声を聞く年齢になって確立した。つぎはこの大河物語だった。私はなにかここにおそるべき傑作が生まれてくるような予感がする。民族の歌である。希望の歌であり、回帰(レヴォルーション)の歌であり、勇気の歌である。子供たちからまたその子供たちへと、永遠に読みつがれ語りつがれていく国民文学の誕生である。小宮山さん自身が、干枚、いや二千枚になんなんとする大河物語を、はたして書き切る時間があるのかと恐れる。しかし小宮山さんは実は「干曲川」を残すために生をうけた人だった。したがって天は、この大河物語の最後のピリオドを打つまで、その生を奪ってはならないのだ。小宮山さんに大河物語を書き切る力と時間を与えたまえ。




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