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名訳 ──吉田 健一訳『海からの贈物』  須藤朱美



二年前、このnoteに上陸して、さまざまな実験をしているが、その一つが言葉と音楽を解け合わせそうという試みだった。本ではページのなかに音楽を流し込むなんて芸当はできないが、コンピューターがつくりだすスクリーンでは、いともかんたんにその世界がつくりだせる。さらに言葉と映像を融合させるという試みにも挑戦しているが、これもまた容易にできる。しかし、打ち込む言葉が音楽や映像に流れ込み、音楽や映像が言葉に流れ込んで、そこに深いストーリーを創造していくことは容易ではない。これまで何回となくその試みをしているが、いまだ模索中だが、そんな中いつくかの会心の世界を産み出したと自負するサイトがある。その一つが、現代の日本語の衰弱と劣化を鋭く暴いた須藤さんの硬質なエッセイと映像を組み込んだ「言葉の誠実さに涙がとまらない」というサイトである。

実はこのサイトづくりで、ぼくは言葉に不誠実な対応をしている。それは須藤さんの硬質なエッセイをつまみぐいしているというか、その中心部分を切り捨てて打ち込んでいるのだ。それはnoteには他者の文章を読む文化がない、硬質な長文を打ち込んだって誰にも読まれない無駄な作業だ、だから要約的につまみぐいすればいいのだという姿勢からだった。ぼくのnoteに生存する姿勢、あるいはnoteの欠陥のシステムと対決する姿勢が未熟であり間違っていたのだ。
そこで、須藤さんが書かれたそのエッセイの全文と、香り高い短編映画と音楽を融合させたサイトをあらためてつくりだすことにした。

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村上春樹やよしもとばななの小説を漫画のようだと評する人がいます。パラパラとめくるだけでざっと読め、それでいて切なさや皮肉があり洒落ています。モチーフの捉え方が現代的で若者の心をつかむ文章。一瞬で映像が、風景が、表情が喚起される文体。だから午後のお茶の時間に合う、寝る前のベッ ドが似合う、電車の中でも、たいくつな授業中の内職にも、時と場所を選ばず読者を物語の世界へ引き込む圧倒的な力があります。これがエンターテイメントだといわんばかりのマスな力があります。それと対極にあるのが吉田健一訳『海からの贈物』です。どういった観点で対極にあるかというと、読者を選ぶ文章とい う点です。

スノッブな人間でなくてはわからない、文学的素養がない人間には読めないという意味ではありません。また、駄文を重ねた翻訳書のように文章として成り立っていないために、翻訳物を読みなれた読者にしか解読できないという意味でもありません。読者の置かれている状況を選ぶ文章という意味です。

『海からの贈物』は島で過ごした2週間の思索を書き綴ったエッセイです。原著は極めて平易で、英語らしい英語で書かれています。難解な文構造は用いられず、論旨は簡潔できわめて論理的です。ところがこういった英語らしい英語ほど翻訳者泣かせの素材はありません。並程度の力量しかない翻訳者が訳すと、一字一句忠実な訳語を当てはめただけの稚拙な和文になるか、あるいはそれを恐れて日本語に引き寄せて訳しすぎたがために意識がコマ切れになったり、最悪は論旨が破綻していたりする擬似創作文になります。前者は意味が通らないし、後者は読み手をイライラさせます。易しい英文は論理性という持ち味が前面に押し出されているがゆえ情緒的な日本語に馴染みにくく、翻訳した場合、美文のまま論旨を保つことが困難なのです。

しかしながら吉田訳では品格ある名訳に仕上がっています。論理的な英文の構造をそのままに、日本語として破綻のない格調の高い翻訳です。読み始めはごつりごつりとした彫りの深い文章に一瞬戸惑いを感じるのですが、読み進めるごとにいつの間にかその凹凸が剛健な味わいに変化していきます。一部分だけを取り上 げるのでは十分にその味わいを堪能することが難しいのですが、とりあえず例を挙げて見ていきたいと思います。

I remember again, ironically, that today more of us in America than anywhere else in the world have the luxury of choice between simplicity and complication of life. And for the most part, we, who could choose simplicity, choose complication. War, prison, survival periods, enforce a form of simplicity on man. The monk and the nun choose it of their own free will. (原文ペーパーバック版p33)

私はそれに就いて、今日、アメリカに住んでいる私たちには他のどこの国にいる人たちにも増して、簡易な生活と複雑な生活のいずれかを選ぶ贅沢が許されてい るのだということを幾分、皮肉な気持ちになって思い返す。そして私たちの中の大部分は、簡易な生活を選ぶことができるのにその反対の、複雑な生活を選ぶの である。戦争とか、収容所とか、戦後の耐乏生活とかいうものは、人間にいや応なしに簡易な生き方をすることを強いて、修道僧や尼さんは自分からそういう生 き方を選ぶ。 (A・M・リンドバーグ著、吉田健一訳 『海からの贈物』新潮文庫p31)

こう並べると吉田訳が原文の論理的な流れをかなり忠実に盛り込んでいる点に気がつきます。そのため出だしの部分は岩のようなごりごりした硬く質素な印象 があります。ところが比較級を用いた主語、関係代名詞の非制限用法、無生物主語といった日本語とそぐわない文章構造では、他よりもう一歩踏み込んだ表現が用いられています。その踏み込んだ表現が、英語的論理展開と和文的思考展開との間の架け橋になっています。吉田健一訳は大枠で英語的な論理の流れを維持しつつ、日本語として論理の飛躍する部分では読者の意識にぴたりと寄り添っているのです。

例文のmore of us in America than anywhere else in the worldという長い主語を読み解く場合、受験英語を経てきた人間は、まず比較表現であることに注目します。前者(アメリカに住む人)と後者(その他の国に住む人)を同格に捉えて比較するよう、学校で教わってきたからです。一方で吉田氏はこの部分を「(前者)は(後者)にも増して・・・」と訳しています。 吉田訳では後者が前者の意味を確定する修飾的要素としてさらりと訳されているのです。この部分を見るだけで、学校英語とはまったく異なる解釈がなされていることがわかります。この訳文は日本の英語学習者がいくら頭をひねろうとも紡ぎ出せはしない高級な英文解釈の結果です。これぐらいのことでなにを大げさなと思われるかもしれませんが、この訳文は英語でものを考えることのできる訳者にしかできない偉業です。

たとえばわたしのような中学英語を源流とするごく一般的な日本の英語学習者はこのthat節内を、まずこんなふうに捉えます。
《  アメリカに居るわたしたちは、世界中の他のどの国に居る人よりも、生活においての単純と複雑を選択する自由を所有している。》

整理された解釈であり、この部分だけ取り上げて意味がわからないということはありません。なのにもかかわらず、言葉にしがたいむかつきが残るのはなぜなのでしょうか。比較を表す「よりも」という言葉に異物感が残り、否が応でも文章の骨格を意識させられるからです。「よりも」の部分で意識がいったん止まり、 そこから先へ進むための集中力がそがれてしまいます。100ページ程度の本の中に2、3回登場するぐらいなら別に目くじらを立てる必要もないでしょうが、 英語の比較表現ごとに意識の断絶を強要されるとしたら、1ページ読むごとに幾度となく意識の流れを中断しなくてはならないでしょう。そんな翻訳書など読めたものではありません。

一方、吉田訳はこの部分を「にも増して」とで軽やかに訳しています。そのため文章の骨格を意識することなく論旨を追うことに注力できます。上に挙げた英文 解釈を始点としているかぎり、「にも増して」という表現にたどりつくのは不可能です。

また、2文目の関係代名詞の非制限用法 , whoと仮定の助動詞couldも「のに」の一言ですべてを表現しています。さらにWar, prison, survival periodsの無生物主語は「とかいうものは」というフレーズが付け加えられることで主語としての強い意味合いが薄まり、さらりと意味が通るようになっています。原文にはないからと、試しに「とかいうもの」を抜いてみると、意味は通るが無骨で下品な印象を受ける文になります。

訳文の読者が意識を遮断されたり、品のなさに辟易したりしないよう手を加えつつも、文章の骨格が持つ英語的論理展開に乱れを生じさせない。吉田健一訳は静 止した湖のような格がありながら、華美な装飾を取り払った論理的な訳文です。

吉田健一訳『海からの贈物』の文体における最大の特徴は丁寧に読むことはできても、飛ばし読みができないという点です。意識の流れを遮断されないため論理的な文章であっても味わいながら読めるのですが、その論理性の精度が現時点で日本語の持つ包括力を凌駕しているため、ペラペラと読み飛ばすような読書には適していないのです。なので読者は自然と落ち着いた姿勢で本に向かうようになります。周りがうるさくて集中できないとか、今すぐやらなくてはいけないことがあって焦っているとか、そういったなんらかの事情で平静な心持ちになれない場合には、文字を追うことさえ苦痛になります。

この点において吉田健一訳『海からの贈物』の読者は『TUGUMI』や『ノルウェイの森』とはちがった本の読み方を強いられます。作家の力量によって創りあげられた空飛ぶ絨毯に乗って物語の世界に連れて行かれるのではなく、読者自身の歩み寄りによってリンドバーグ夫人の心理状態に近づいていかなくてはなりません。この過程こそが『海からの贈物』を読む醍醐味です。そしてその効果を生み出しているのが吉田健一の文体に他ならないのです。

レビューや批評に目を通していて、吉田訳が直訳的で読みにくいという少数意見に遭遇しました。何をもって良しとするかは人それぞれ千差万別なので、そこに意見するつもりはないのですが、読みやすさイコール文章の巧さだと考える向きはいささか読書体力の欠如とも感じられます。たとえば自力で歩いて登らなければ見ることのできない景色があるように、一言一言かみしめるように読んでいかなければ到達できないメッセージというものも存在すると思うのです。疲れきっ た体と心を癒そうと、海からのメッセージを書き留めたリンドバーグ夫人の作品には、むしろそうした地に足のついた文章が似合います。ジェットコースターのような文章では読者に考える余地を与えません。文字を追いながら自分の生き方を見つめ直すことを提案する本が、ジェットコースターのような文体を採用するのは間違いだし、自己啓発なるものは本来読みやすくあろうはずがないのです。

誤解があるといけないのでもう少しだけ詳しく説明させていただくと、ジェットコースターのような文章が低級だというのではありません。伝えたいメッセージ には適した文体があると主張したいだけです。優しい愛の言葉を歌うシャンソンがあるとします。流行のミュージシャンが編曲して熱いロックに生まれ変わることもあるでしょう。しかし聴く側の心に届くメッセージは決して同じではないはずです。発信する側の思いによって、たとえ表面に現れる言葉は同じでも乗せるリズムが変われば受け取る印象もまた変わります。シャンソンが素敵だ、ロックは劣るといった議論は意味のないことです。その気持をどういう方法で伝えるかの差にすぎないからです。文章の場合はそれが文体の問題になります。議論されるべきは、結果として読者の心に届く文体であったか、息づかいであったかということだけです。そういった意味で吉田健一訳は『海からの贈物』にぴたりと合った名訳だと思うのです。

吉田訳は日本語が消化しきれていない高度な論理性ゆえに読者の読む速度を遅らせます。そして上品で丁寧な文体が読者に考える余地を残して、ものを考えながら読むことを促します。そうやって書かれている内容を理解する心境に達して、リンドバーグ夫人の伝えようとした『海からの贈物』というメッセージを受け取ることができるのです。抜粋すると効果が薄れてしまうので、すこし不本意なのですがあまりに誠実な文章なので、ぜひここでいくつかご紹介したいと思いま す。

Naturally. How one hates to think of oneself as alone. How one avoids it. It seems to imply rejection or unpopularity. (p41)

勿論、誰も自分が孤独であるとは考えたくはない。なんとでもしてそう考えることを避けようとするので、それは人に嫌われているとか、仲間外れにされている ということと同じに思われる。(p39)

When you love someone you do not love them all the time, in exactly the same way, from moment to moment. It is an impossibility. It is even a lie to pretend to. And yet this is exactly what most of us demand. We have so little faith in the ebb and flow of life, of love, of relationships. (p108)

我々が誰かを愛していても、その人間を同じ具合に、いつも愛している訳ではない。そんなことはできなくて、それができる振りをするのは嘘である。しかしそれにも拘らず、我々はそういうふうに愛されることを要求していて、我々は生活や、愛情や、人間的な関係の満ち引きに対してそれほど自信がないのである。 (p108)
 
上に挙げた二つの例に込められたメッセージは決して元気いっぱいのときに理解しようと思う類のものではありません。悩むところがあったり、生き方を振り返りたい気分だったり、気持が引き潮のときでなければ痛切に感じることのできない文章です。原文だと意味が理解できるのですらすらと読んでいけるのですが、不思議なことに吉田健一訳の方がそう簡単に先を急がせはくれません。心の中が陽気すぎたり、殺伐としていたりすると文章が頭の中でうまくイメージ化されず、ただ文字を追うばかりになります。かといって文章が悪いのかといえば、やはり先ほど検討したように決してそういうことではないようなのです。まず不用意に勢いづいた気分をいったん静めなくてはなりません。謙虚さを忘れたままではメッセージを受け取れない力が働いています。その代わり、この文章を読む状況に心がはまったとき、静かな波が押し寄せるかのように『海からの贈物』は大きなメッセージをはらんで読者を包み込んでくれます。

様々な価値観に素手で触れては辻褄を合わせようと躍起になることがあります。落ち込んだり、背伸びをしたり、卑屈になったりしているうちに自分は何がしたかったのか、どうありたかったのかがわからなくなる毎日です。実を言うとわたしにとってこの本は何度か挑戦していながら、その度に挫折していた難攻不落の1冊でした。原文は読むことができても、どうしても吉田健一の訳文には足元をすくわれるような、とうせんぼされるような気がしていました。今回、年の終わりに駄目元で手にして、初めて最後のページを開くのを許されるという体験がありました。そうしたら言葉の誠実さに涙が止まらなくなりました。

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須藤さんの透徹した厳しいエッセイに、シェカール・カプール監督の手になる動画を貼り付けてみた。わずか十分余の短編映画だが、深い言葉とイマジネーションを喚起させる。こんな短編映画をつくってみたい。こんな短編小説を書いてみたい。

 ワイングラスをあわせた高名なソプラノ歌手は、腰に障害をもった若いホテルマンに、
「寂しそうね、そんなにお若いのに」
 ホテルマンは、ソプラノ歌手に寂しく尋ねる。
「いまでも歌われているのですか」
「歌わないの、今は歌っていないの」
「あなたの歌が聞きたかった」
 画面の奥から彼女の歌う歌が流れてくる。
 寒くなりますからドアを閉めましょうと揺れるカーテンの奥に姿を消していくホテルマンから声が飛んでくる。
「その苦しみによく耐えられますね、よく我慢ができますね」
 歌を歌えなくなったこの高名なソプラノ歌手は、このホテルのテラスから身を投じるために投宿したのだった。

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