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『ポラーノの広場』を読む

 思わずつぶやいてしまった。
「相変わらずブッ飛んでるなあ」

 宮沢賢治みたいな作家は他にない。彼の作品には、「はい、これです」と言って目の前に宇宙をまるごとゴロッと転がされるみたいな、ちょっとあり得ないところがある。
 
 そんな作家は日本には彼しかいない。海外にはあるのかもしれないが、言語の壁があってわからない。いずれにせよ、そんな類い希な魅力が、大の大人を夢中にさせ続けているのだろう。
(こころみに図書館に行ってみるといい。宮沢賢治について論じた本の、なんと多いことか!)

 なぜ彼がそんなとんでもない表現をなし得たのか。いろんな人が、いろんなことを言っている。岩手(イーハトーブ)という風土。法華経。妹とし子への道ならぬ恋。それぞれに説得力がある。
 でも、宮沢賢治の創作には、もっと単純な秘密がある。

 彼には読者がなかった。編集者がいなかった。

 それが大きな理由としてある。

 作家であればかならず、作品を本にする人=編集者がいる。世上いわれるとおり、編集者とは最初の読者である。作品を読んでくれて、感想を言ってくれる。読者を置いてけぼりにしてしまう表現をしていれば、それを指摘してくれる。
 どうしてそんなことするかって? それが仕事だからだ。作品を広め、できるだけ多くの人の手に届かせる(売れるようにする)のが、編集者の大事な仕事である。作家でそれができる人はすくない。

 宮沢賢治には編集者がいなかった。作品にたいして意見してくれる人がなかった。生前出版された本は詩集一冊、童話集一冊、いずれも少部数の自費出版である。編集者に当たるような人はまずないだろう。
 作家本人は、作品を売りたいと思っていた。多くの人に届けたいと思っていた。自費出版はまったく売れず、ずいぶんふさぎ込んだと聞く。指摘すれば喜んで直しただろう。だが、そんな人はいなかった。

 たとえば、『ポラーノの広場』において、主人公と重要人物ファゼーロが出会うきっかけは、山羊が迷ったからである。なんだそれ。でも、彼にはそれを指摘してくれる人がいなかった。

 だから良かったんだ、とも言える。
 優れた作家であればあるほど、編集者の身の丈に応じた作品をつくる。編集者が理解し、編集者が売ることのできる作品をつくる。
 宮沢賢治の「はい、これです」宇宙ゴロッ、な作品を理解し、ちゃんと世に送り届けられた者がいるだろうか。

 草野心平は自費出版された彼の詩集を持っていたそうだ。その気になれば探せる才能だったのである。でも、彼はデビューできなかった。その作品が売り物になると考えた編集者がいなかったからだ。

 でも、編集者がなかったからこそ、読者がいなかったからこそ、あの作品が存在できたのではないか。あれが中途半端に理解されて、売るためと称して改変されていたならどうだろう。ちょっと寒気を禁じ得ない。
 読者が、理解者がいないからこそ、自分だけのものだからこそ、すごいものができたのだ。

  *

 現代は似た状況にあるかもしれない。真の天才が、誰にも邪魔されることなく、凡人には決して生み出すことのできない作品をもくもくと大量生産できる環境がある。ソーシャルメディアとかブログとか、多くの人に知られず自己を燃焼できる場所はいくらもあるのだ。
 でも、マスコミの人間はちょっと面白いとすぐに商品にしようとするからな。以前流行ったブログ本ってのがまさにそうだ。素人もアクセス稼ぎに躍起になってしまうし、誰にも理解されない、しかし凄い世界はかえって存在できなくなってるのかもしれない。

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 宮沢賢治ばかり読む時期は何度かあったけれど、今回は『ポラーノの広場』なんだ、そうじゃなきゃダメなんだ、と思いこんでいた。
 理由はあったはずだ。でも、なんだか忘れてしまった。


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