何者にもなれなかった男

小学5年生から水球をやっていた。
水球というスポーツはプールで行う7:7のハンドボールのような、手で行うサッカーのようなスポーツだ。

・競泳
・アーティスティックスイミング(旧名:シンクロナイズドスイミング)
・飛び込み
・水球と4大水泳競技ではあるがいまいち日本では水球は浸透していないスポーツだ。

始めたのは小学校の担任の先生に誘われてやり始めたが、なんとなくで入り始めて中学3年までやった。
小中どちらも全国大会を目指して毎年行ってたチームだったので、練習は厳しく、プールサイドに打ち上げられるような毎日。監督、コーチに怒られてなかなかに辛かったがやり続けた。

中学3年の頃には周りの後輩たちの悪意ある投票によってキャプテンになってしまった。
技術はほとんどなかったが、泳力とスタミナと身体の大きさはあったのでそれを活かしてめちゃくちゃに泳ぎ込んで、チームで1番速い男となった。
その結果、北信越ブロック予選で最優秀選手に選ばれたこともあった。

中3の最後の全国大会はベスト8で幕を閉じた。

高校生になった。
水球のある高校には行かなかったが、その高校に混ざって練習した。
先輩達はめちゃくちゃ力強く、中学とは違う感覚に圧倒されながらもなんとか練習について行っていた。

練習後の自主練でコーチから特別メニューを言い渡され、それがどうしようもなく辛く、次第に耐えられなっていった。
4月末に県外遠征に行った時にもコーチと衝突してしまい、水球をそのまま辞めてしまった。

その頃はコーチの所為だと思っていた。
しかし、小中学とやってきてキツイが先に来てしまい水球を好きになりきれなかった自分がそこにはいたのだろう。

その後、高校では運動部には入らず、演劇部に入部した。

演劇部期間はなかなかに充実した日々を送っていた気もしたが、高校教師に中学時代の監督のお父さんがいたり、臨時講師に水球の後輩のお母さんがやってきたりして水球からは逃れられないのかと少し思い悩んだ日もあったが、特に何も言われることなく経過した。

そんなこんなで高校2年生の3月。
演劇部は続けていたが、トラブルがあり毎年行なっている「自主公演」が行うのが難しい状態になった。

……とある日の夢…
水球の全国大会の会場で私はシュートを決めていた。

高1,2年水球から離れて未練もなかったのに急に夢に出てきた。

その1週間後、2年間連絡取ってなかった水球の同級生の「ホリ」からメールが来た。

『水球戻ってこない?』

夢から1週間以内だったので、これはなんらかの思し召しだと思い、『わかった、やるよ』と言った。
演劇部を辞めて水球を再開した。

水球に戻ると同級生の「ホリ」が出迎えてくれた。もう1人、「タナカ」というやつもいたが、辞めてしまったらしく、「ホリ」1人が唯一の高校2年生。1ヶ月後には唯一の3年生だったっぽい。

高校2年間運動なんて体育以外してこなかった。
当然泳ぐこともボロボロだった。

技術はほとんど失われ、泳力とスタミナもなく、私はチームで1番遅い男となった。
あの頃とかわり映えのしないメンバーに歓迎されながらも、後輩達よりもはるかに遅く、何もできない私がそこにはいた。

4月。3年生になり私はチームの副キャプテンになった。3年生というだけでそうなってしまった。
後輩たちの方が泳力もあり、技術もある中、力だけはなんとか高1とトントンぐらいだった。
死に物狂いで泳いだが、息切れが酷く、体力が一向に戻ってくる気配はなかった。
5月に入り、県外のチームと練習試合中に沈められた拍子に相手の膝が私の下唇にあたり、私の犬歯が唇を貫いた。
血が出る中、病院へ向かい縫ってもらったが1ヶ月はプール禁止を言い渡された。
頑張って陸上トレーニングでスタミナをつけようにも、水泳中の疲れとは違うものもあり、チームで1番遅い私はただただ焦った。
ようやく入れる頃には4月中に頑張って身につけた泳力は失われてスタートに戻っていた。

高校水球は当時3回大きな大会があった。
夏の国体
夏のインターハイ
3月のジュニアオリンピック

インターハイは高校単位の大会なので私は出場できないが、国体とジュニアオリンピックを目指すこととした。

真っ先に国体予選がある。
しかし、体力は1試合保たない。
なので、後輩で同じポジションの「オオタ」と1ピリオド(1クオーター)交代で使っていく方針となった。水球は4ピリオド行われるスポーツだ。
とりあえず2ピリオドの体力を作ることが急務だったが一朝一夕にはいくわけなかった。
そんな中で国体予選。
チームメイトが奮闘する中、私は何もできず試合にも負けて国体予選敗退となってしまった。

そのあとは3月のジュニアオリンピックまで時間があり、体力を作った。
身体が絞られていき、少しずつ体力が戻ってきた。50メートルのタイムだけであればチーム最速にはなれたが、100メートル以上の長距離だと下から数えた方が早いくらいには遅かったし体力は保たなかった……

高校3年間のうち、1回でも全国大会に出てスカウトの目に止まれば、大学推薦という道も生まれる。現に『ホリ』は専修大学へスポーツ推薦で大学を決めることができた。
私は3年間どこにも出場してなかったのでもちろんなにもなかった。

秋も終わりジュニアオリンピック予選。
体力はちょっとついたが相変わらず1試合丸々は出れなかったが、その中でもなんとか得点を決め、勝ちジュニアオリンピック本戦に出場することができた。

ホテルは負けた県外チームと一緒のホテルの共同浴場で出くわした。
彼らもまた、小中高と水球をやり続けていた奴らで私のことを昔から知ってる。
そんな中、向こうの『イケダ』というキャプテンと1時間くらいたわいもない話しをした。
彼は日本体育大学に進路が決まっていた。
その中で「なんで水球に戻ってきたのか」と聞かれたから「夢で見たあとにホリから連絡が来てこれはやらないといけない」と答えたが「そんなことあるわけないだろw」と言われたので、考えもなく「そこに水球があったから」と適当に答えたら、なんとなく感銘を受けてくれたらしい。それで良かったのか。。。

ジュニアオリンピック大会直前。最終調整は日本大学で行うこととなった。
そこで何故か私はすごい覚醒してバンバン大学生相手にシュートを決めることができていた。
監督の目に留まり「大学はどこにいくのか」と聞かれたが、「ほとんどやってなかったので推薦も何もありませんでした」と答えると少し残念そうにしてくださった。

ジュニアオリンピック。
初戦から優勝候補のチームとぶつかることになった。
激しい攻撃に対して体力が削られ全然泳ぐことが出来なく、オオタと交代した。
オオタが私の代わりに頑張ってくれている。
4ピリオド目…点差がつき負けている。1年のオオタが頑張っているのに私はベンチで応援。
オオタの体力がきつそう。だが点数は入らずラリーがしばらく続き得点を入れられてしまった。

そんな時、監督がこちらを見て

「おまえ3年だろ、どうして1年が頑張って最後の大会のおまえが頑張ってないんだ。おまえはここ(ベンチ)でなにしてるんだ」

その後試合には出たが何もできず負け私の大会は終わった。

私は高校3年で部活に戻ってチームを助ける漫画やアニメのようなキャラクターにはなれず、夢に見た「全国大会でシュートを決める私」にもなれず結局何者にもなれなかった。
そんな青春時代。

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