ほんとは生きたいって思えるように、軽率に死にたいと思うことを許している

他人には言わないようにしてるけど、日記とか自分のなかでは軽率に死にたいと書いたり自殺を考えることを許している。

理由① 実行可能性が低い

まず、客観的に見て自分は(今のところ)実行しない見込みが高い。
ずっと長いこと死にたいと思っている割には、自傷行為や自殺未遂の履歴がなく、走行する電車や窓の下や柵を見つめることはあっても、その瞬間の痛みや後遺症や周りの反応などを想像するととてもではないが実行できなかった。

結局のところ、メリデメを天秤にかけた時にメリットが上回ったことがない。
「死ねば楽になれる」というのも思い込みの可能性が存分にある。例えば、死ぬ瞬間の痛みが永遠に続くとかいう恐ろしすぎる説もあるし、仏教では自殺すると餓鬼道に落ちて簡単には這い上がれなくなるという。どれもガチで死んでみないとわからないため、とても割のいい博打とは言えない。今が辛すぎるとして、死んだ後それが全てなくなる保証もない。生きていた方がまだその苦しみを除去する方法は思いつく。その難易度がどんなに高くても、死後とかいう人智を超越した世界で安寧を達成するのに比べれば容易くはないだろうか。

さらに言えば、死という絶対的な結末は、生き残った場合の未来の可能性をすべて潰すことになる。もちろん生き残って更につらく悲惨な人生を遂げる可能性もゼロじゃないけど、普通に考えて、生きていればいいことも悪いことも色んなことが起こる。良いことなんもないずっと辛いだけの未来って、たぶん戦争が起こって、敵国に捕まって一生拷問され続けるとかのレベルだと思うし、だったら流石にその可能性が目の前にきてから自決すればいいと思う。

未来の全ての可能性を自ら潰して、死を確定させてしまうリスクがでかすぎる、だから実際に自殺はしない。これは今までで最も死にたかった時期に出した結論である。

理由②考えるだけなら楽しい

そして、実行可能性が低い割には、そのことを考えるのが楽しい。
「病む」という行為は独特の快感が伴うと感じる。圧倒的に辛いことがあったとき、「あーもう死にたい。生きてる意味ない」と極端な思考をする。すると希死念慮という、ひどく重大で他人を動揺させることができる思考を、いま自分は確かに持っているという事実が、誰にもわかってもらえない自分の苦しみを究極的に正当化できるような感覚に陥る。「こんだけ死にたいくらい自分は辛いんだ」という、「死ぬほど辛いことを許されている感覚」である。
逆に、死にたいと思えるほどでなければ、「そんなの大したことないじゃん」と自分の辛い気持ちが軽んじられるような気がしてしまうのだ。

(ここまで書いて恐らく自分は幼少期や思春期に辛い感情を共感され、認めてもらう体験に乏しいことに考え至った。「そんなことで悩むな」と一蹴されるような家庭だったので、自殺をちらつかせ親を脅すことによって苦しみをアピールしていたのだろう。)

そして大人になった今も、希死念慮が湧くような精神状態の時は決まってインナーチャイルドがインナーペアレントに対して騒ぎ立てているという構図になっている。幼少期の家庭環境を再演しているのだ。いつも自分の価値や感情や存在を否定する(私にとって親とはそういうものだった)インナーペアレントを黙らせる為に、インナーチャイルドが命を人質にし警鐘を鳴らす。自己承認の一環としての希死念慮がある。

何度もそういう心のサイクルを繰り返してきたため、流石にそういった裏が透けてきて、本気で死ぬぞ!!とまで思うことは無くなったが、軽率に死にたいとはっきり自分の中で唱えることは割と今でも有効である。


理由③結局「ほんとは生きたい」と思える

上ふたつの理由を踏まえれば、結局「ほんとは生きたい」と思わざるを得ない。というか、そちらに自分を誘導する為に上ふたつの理由をここまで論理的に整理しているのかもしれない。

特に①のリスクの面を考えれば、やっぱりひとまず、暫くの間は生きるしかないのである。だからここまでメタ認知を極めようとしているのだろう。

願いはただ一つ、この辛苦から抜け出し幸せになりたいだけ。
本気でその願いを実現するにはまず死という退路を断たなければならないのだ。「別にいつでも死ねるし」という軽々しい思考はあえて持ち続けているけれど、ずっと自暴自棄になっていては幸せから遠ざかるだけだ。
自分の中で色んな倫理を超越して本気で死を信じそれを決意するのなら、もうその時はその時なのだと思う。
だけど死なないのなら、生きている時間をできるだけ良いものにした方がいい。潔くどっちかに覚悟を決めた方がいい。だから私は後者に決めた。その覚悟が出来るくらい、私には本物の死は恐ろしかった。

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