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まだ考えてしまう

また木村花さんの訃報を受けてですが

先日書いたことは怒りからくる否定でしたが

考えつづけていく中で多角的に考えられるようになってきたからかいくつか疑問が浮かびました

あの番組を見てるのは何歳ぐらいの人達でTwitterやらであの人を誹謗中傷した人達は何歳ぐらいの人達なんだろうと

おそらく10代~20代がメインの層じゃないでしょうか。まぁ30あたりもそこそこいるでしょうが。

自分がそのメインの層の年齢の時は似たような番組で《あいのり》何て番組がやってました

ずいぶん夢中になって画面上の出演者にだいぶと感情移入して盛り上がっていました

当然その中で「なんだよこいつ」とか「まじいらねーよこいつ」とか夢中になるあまりに画面に向かって無意識に声をだしていたこともあります

結局ここなんじゃないかなと思いましたね。

ゲームやスポーツやテレビ番組に夢中になって思わず声がでてしまうのは誰にでもあると思います

で、今の10~20代の人達は物心ついた時からかはわからないですがSNSやらインターネットが身近どころか生活の一部になってるのが当たり前で

自分の声を世界に向けて発信することが当たり前

僕があいのりを見てた時に「なんだよこいつ」とか呟いた時

その時にその呟かれた側の気持ちなんて考えてなかった。これに限りなく近い精神状態なんじゃないかな。

ICTとの距離感が近すぎるせいで自然と世界とコネクトしてしまう状況

だからただ誹謗中傷したやつらを否定するだけというのは本当の問題の解決にはならない

誹謗中傷したやつらに想像力が欠けていたのは言うまでもないし、度を越えた発言や度重なる嫌がらせにも似たことをしたやつらは実際になんらかの法的な処罰を受けるべきだとは思う

あれは集団リンチであり、血生臭い暴力だった
紛れもなく一方的な暴力だった

本物の暴力はいつも一方的なもので
理不尽で不条理なものだ
そこに意味らしいものは何もなく
ただ《暴力》が行われたというだけ

だから本物の暴力に触れた時に生理的に拒否反応がでてくる。今回のことは本当に吐き気がするほど醜くて汚くて不快だった


話を戻すと

ああいうTwitterみたいなレスポンス性の半端なく高いコンテンツをモラルやマナーといった社会にとって必要な人間性を保ったまま使いこなす

っていうのがそもそも不可能なんじゃないかな。
特に10代~20代前半の人達には。

30にもなってあんなことやってる奴がいるとしたらそいつは男にせよ女にせよトランスジェンダーにせよただの害悪なゴミであるばかりか、そんな無能なやつに生産性なんてあるわけないので早めに消えてくれればいいなと願うばかりですが

現時点でやるべきことは法律の改正や制定
ああいったレスポンスの高いコンテンツを使用する上でのなんらかの規制が必要だろうと思う

そういったシステムを変えるという意味では、国がこれほどはやく制度改正に向けて動き出したのはすごくいいことじゃないでしょうか。

ただ、、これは広い視点で見るとこれはやはり消極的な対策ということにならないでしょうか。

外的圧力からの抑制と禁止では限界ありませんか?

人を殴るのが罪なのはなんでなのか。
法律で人を殴るのがいけないと定められていて殴ったら自分が罰を受けるから

じゃないですよね。絶対に。

人を殴るのが罪なのは人に人が危害を加えることが罪だからで、もっと言うと人が自分が殴った時に罪を感じるから罪になるんじゃないでしょうか。
罪悪感というのがそれですね。

ドストエフスキーの《罪と罰》という小説がありますが太宰治が《人間失格》の中でその小説について考察してる部分がありました。

これまた詳しい流れとか忘れちゃったんですが要約すると以下のようなことじゃなかったかなーと、、

「罪と罰は必ずしもリンクしていない」

まぁよく考えればそうですよね。
文面だけを見れば誤認逮捕だとか裁判で無罪なのに有罪だっとかそういうこと?とかいう話、、

じゃなくて

そもそも罪がないところに罰はないということ

罪を自覚できなければ、知覚できなければ
本物の罰は課され得ないということ

じゃあ罰ってなんなんでしょうか。

もしかしたら罰は課せれるものであると同時に、罪を自覚した者が自分に課すものではないでしょうか

だから外的な抑止力だけでなく内的な部分である人の意識をどうにか変えていかないといけない

これは本来教育の仕事であるはずですが、こんなことが毎日毎日起きるような社会であるということが現在の教育がその点においては失敗しているという証明に見えてしまう

もうひとつ今起きてることとして

ステアカやらなんやらでSNSで誹謗中傷を繰り返してきたやつらが今になってその相手に謝罪のツイートやらDMを送りまくってるらしい

これはまさに罰を恐れて罰を逃れる為だけにやっている行為であり依然として彼らが罪を自覚、知覚したということではないですよね。

謝罪とは罪に対して謝ること。
では罪を知らない彼らは何をしていることになるんでしょうか?


総括していこうと思います。
まずは守る為のシステムを構築することが重要。

それと同じぐらい大事なことは意識を変えること
苦痛を知ること、苦難を知ること。
人は人であることを知ること。自分がされて嫌なことは大抵みんな嫌なものといったコモンセンスをどうリアルに認識できるのかが重要ではないでしょうか。

苦悩によって人は互いを少しでも理解する、という能力を身につけることができると僕は感じています。

そして世界的に見てもSDGsのようにサステナブルなもの以外は認められなくなってきています。

サステナブルはモノにだけ当てはまる概念ではないし、SDGsでは実際にダイバーシティやディーセントワークに対する記述もあります。

この先の世界はそもそも暴力的であるもの
または暴力的なものに繋がる利己的な行為を無自覚に行ってしまうような無知で無能なものや人は淘汰されていくべきだと思っています

そして少なくともそんなおっきな話、自分は関係ないってのはもう嘘です

これだけグローバルにコネクトされた世界で意見を持たないというのは致命的ではないでしょうか

自分が考えてもしょうがない
どうせ何も変わらないじゃん

これが通用しなくなる世界になってきてます。

あなたはどう思いますか??
彼女が亡くなったのは仕方ないことですか??
自分には関係ないことですか??
自分も利用してるコンテンツなのに??
それは自分がどう思ったところで何も変わらないから関係ないと諦めてるだけじゃないですか??

繰り返しますが

こういったことが通用しなくなる世界になります

世界はすごい速度で変わっていってます
働き方も人との接し方も生活の様式もどんどんと変わっていっています

その変わり方は《あなたはどうするか》というあなた自身の意見を、常に世界から求めつづけられるという変化だと思います

その意見や意志がないものに用意される場所はたぶん居心地のいい場所ではなくなっていくでしょう。右倣え右で良かった時代はもう終わりつつあると思います。

と、長くなりましたが言いたいことは言えた気がします。これが全部自分に跳ね返ってくると考えると後悔しかありませんね。笑

僕も変われるように毎日積み重ねていきます。

1番重要な事を言葉に出来ていませんが。。
木村花さんに捧げる言葉の変わりに曲を書きましたので形になればどこかにあげてみます。

それではまた。







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