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【短編小説】 大人になんてならないで

 夜更け過ぎ、美里みさとは身動きの取れない体に気づき、目を覚ます。

 昨夜は凌久りくの夜泣きが激しかったけれど、今夜は子供たちの声も物音も聞こえない、しんとした夜。隣に眠る、母の寝息さえ聞こえない。

 こんな夜にこそ、十分に休息を取らなければ──寝返りを打とうとするが、なぜか体が言うことを聞かない。どうしてだろう、いやいやするように、布団に顔を押しつける。と、じわっと濡れた感触があり、美里みさとの意識は急速に現実へと戻った。いやだ、隣の部屋で寝ているはずの凌久りくが、あるいは美桜みおそらがやってきて、美里の布団でおねしょをしたのかしら。

 しかし、完全に意識が目覚めた美里は、事態の異常さにようやく気づく。なぜなら、動けないのは手足を縛られているためで、濡れた感触はおねしょではなく、布団が吸い取った赤い血だったのだ。豆電球の明かりの中、胸に包丁のようなものが突き立って、寝息を立てることもできなくなった母の──。

 恐怖の中で、美里が真っ先に思ったのは、もちろん子供たちのことだった。三歳になったばかりの凌久りくに、保育園に通う翔平しょうへい、小学生の美桜みおそら、中学生の琉珂るか杏樹あんじゅ、血こそ繋がっていないものの、母と美里にとって、命よりも大切な子供たち。彼らは育児放棄に、暴力に、ネグレクト、様々な理由で児童養護施設に預けられ、美里たちの元へやってきた。里親として、不適切な養育をされた子供たちに、家庭という環境を提供するため。

 その子供たちは、何としても守らなければならない。

 美里はもがき、何が起こったのか知ろうとした。恵まれない子供たちを引き取り、育てようとするような母だ。誰かの恨みを買うとは考えられない。家は昔ながらの木造住宅、強盗が押し入るにしては魅力がなさすぎるだろうし、養育代として国から支払われる金は、余れば貯金してあるものの、それほど多いわけでもない。近所の誰に聞いたって、あの家は金持ちだなどという噂は、出てこないに違いない。ならば、なぜ──。

「誰か、誰かいるの?」

 恐怖に声を掠れさせ、美里は叫ぶようにそう言った。大きな声を出すのは危険かもしれない。けれど、動けない彼女にはそうするより他はない。

「誰か──」

 そのとき、美里の口が塞がれた。恐怖のあまり、再び叫ぼうとした彼女に、その手の主が「しっ」と注意を促す。

「黙って、静かにして、美里さん」

 その声に驚き、美里は慌ててそちらに首を向けた。目が慣れてしまえば、まるで赤い夕闇のような部屋の中、二つの見知った顔がある。琉珂るか杏樹あんじゅ。来年は高校生になる、寡黙な男の子と、物静かな女の子。

 二人は無事だ。

 美里は安堵に何度も頷き、必死に声を抑えて尋ねる。

「他の子たちは? 大丈夫? あなたたちは何もされなかった?」
「大丈夫」

 杏樹の声がひどく落ち着いていることに、美里は気づくべきだった。血まみれの布団、すぐそこには養母の遺体が転がっているというのに、何の恐れもないような、二人の様子をおかしいと思うべきだった。

 けれど、美里は気づかなかった。無論、その状況があまりに異常だったからということも言えるだろう、しかし、それは二人の無事を確認した途端、美里の奥から湧き上がった感情が、その目を覆い、脳を支配し、現実を歪めたからだとも言えるのだった。

「どうしてこんな──」

 赤い夕闇と同じ色が、美里を包み、めらめらと激しく燃え上がった。

「こんなことになるなんて、ひどすぎる。本当にこの世は悪魔ばっかり、汚い大人ばっかり、子供の前でこんな恐ろしいことをするなんて──」

 美里がその言葉を最後まで言えたかどうかは分からない。恐らく、その直前で、杏樹は琉珂に合図をし、琉珂は包丁を振り下ろした。美里の心臓目がけて、鋭く、正確に、先ほど養母にそうしたように、二度目はもう少しためらいがなく。

「……大丈夫」

 ややあってから、杏樹が言うまで、美里が完全に事切れるまで。

   *

「大丈夫」

 杏樹の声に、琉珂は手を止め、息をつく。動かなくなってしまった、養母たちを見下ろす。

 死。それは長らく、琉珂のものだった。実の母親は、三歳だった琉珂をアパートの一室に置き去りにし、一ヶ月も戻らなかった。それが児童相談所の職員に保護され、施設での生活が始まり、「死ぬ寸前だった」「死ななくて良かった」、直接ではないにしろ、周囲でそんな言葉が囁かれるたび、琉珂は死というものが、自らの中で育まれていくのを感じていた。

 生き物は、死んでしまう。

 例えば、ダンゴムシなどを踏み潰せば、捕まえたトンボの羽をむしれば、飼っているハムスターに餌をあげなければ、再び動き出すことがなくなってしまう。それが死というもので、それはとんでもなく悪いことなのだった。だから、母親は警察に逮捕されたのだし、琉珂は保護によって死から遠ざけられたのだ。生きることが良く、死は悪いことだから、琉珂の身に起こってはならないことだから。

 しかし、死というものは、傍から見るに、よく分からないものだった。動かなくなる、それがなぜ悪いことなのか。苦しむから、そう考えたこともある。苦しむのは、琉珂も嫌だ。けれど、すると苦しまない死なら良いのかと言えば、どうやらそれも違うらしい。死は悪い。それはとにかく絶対なのだ。

 その理屈を飲む込むために、琉珂は施設の裏庭で虫を殺した。殺す、というよりは、死を与えた。食堂の隅にはゴキブリホイホイが置いてあるのを知っていたし、一時はネズミが出たというので、施設に駆除業者がやってきた。そのほかにも、蛾や蚊は皆叩くのだし、琉珂の行為はそれと何ら変わらない、むしろそれよりは意味のあることだった。何しろ、琉珂は死にかけたのだから、死は琉珂のものだったのだから。

 その死の身近さに、あのとき死んでたって良かった──と琉珂は一度そう言って、職員に泣かれた経験がある。「命は大切なものなの」「あんなことがあったんだから、大人を信じられないよね、でもここにいれば大丈夫だから安心して」「死んで良い子供なんていないんだよ」。

 そして、再び周囲は囁く、「可哀想に、心の傷が」「本当に酷い親」「どうしてこんなに可愛い子たちを、虐待なんかするのかしら」「どうして周りも気づかないのかしら」。

 施設にいれば、琉珂は安全で、死とは離れていられるらしい。しかし、琉珂は何が安全なのか、なぜ死は悪いのか、それがまだ分からない。分からないまま、ある日、里親候補という人が来て、施設ではない、別の安全な場所へ行くことになった。

 あの日のことは、いまでもよく覚えている──琉珂は握りしめた包丁から、手を離す。その手をひやり、と冷たい感触が包み込む。

 杏樹。琉珂と同じように、施設から引き取られたという杏樹と、初めて会った日。その杏樹を一目見て、琉珂は自分と似ていると思った。もしかしたら生き別れた双子なのではないかというくらい。

 否、他人に言わせれば、琉珂と杏樹は似ても似つかぬ顔をしている。けれど、なぜだろう、琉珂は二人は似ていると直感したのだ。

 そして、それは杏樹も同じだったに違いない。

「じゃあ、いい?」
 杏樹が聞く。

「いいよ」
 琉珂が答える。

 琉珂を追い続けていた死に、いま、ようやく捕まるときだ。

   *

 いいよ、と琉珂が答えたので、杏樹は新たな包丁を取り出して、それを琉珂の首に突き立てた。血しぶきが頬を、手を濡らし、それがとても熱かったので、杏樹は熱いよ、と琉珂に囁いた。

 初め、年寄りの方を刺したとき、その血はとても冷たかったし、もう一人の養母を突き刺したとき、その血もまた冷たかった。だから、この血が熱いということは、琉珂がまだ子供の印、純粋無垢な天使であるという証なのだと、そう思った。

 その思いが伝わったのだろう、よかった、琉珂は囁いて、眠るように目を閉じた。最後が一番大変だから、杏樹が最後なのは嫌だと、子供のように言っていた琉珂の顔は、いま穏やかで、よかった、杏樹もつぶやいた。

 育児放棄された琉珂とは違い、杏樹は親から暴力を受けて育った子供だった。何度目かに骨が折れ、右目が見えなくなったとき、ようやく児童相談所がやってきて、施設に保護されたのだった。そこで、杏樹は琉珂と同じように、親が悪いと聞かされた。「こんな酷いことを」「最低の親だ」「どうして大人は誰も止めなかったの」。

 杏樹が悪いことを繰り返すから、俺たちはそれを叱ってやっているのだと、親はそう教えたというのに、職員の言うことはその真逆を行った。杏樹は悪くない、悪いのは親だ、見て見ぬふりをする世の中の大人だ──そして、それは杏樹を施設から引き取った養母も同じだった。「世の中は酷いことばかりだ、大人は汚い人ばかりだ、嘘つきばかりだ、でもここは安心して、私たちはあなたを精一杯守るから」

 暴力のない生活はとても楽だったので、杏樹は次第にそれを信じた。杏樹が悪いのではなく、親が悪かったのだ。施設や養母が正しく、教えられたことが間違っていたのだ。

 けれど、そう信じながら、杏樹は自分の心に埋められない穴が開いているのを感じていた。その穴が何を意味するのかは分からない。しかし、他の養子が来ると聞かされ、初めて会った琉珂の姿に、杏樹はその穴の正体を知ることになった。

 それは、死だ。

 三つの死体を目の前に、杏樹はふらりと立ち上がり、琉珂と一緒に用意した、首つり用の縄に触れた。

 杏樹の体重を支えられる結び方は、二人で調べて練習もした。人に刺してもらうのならばともかく、包丁で自殺するのは難しい。躊躇い傷ばかりが増えて、生き残るのは絶対に嫌だという、杏樹の願いに、琉珂が協力してくれたのだ。

 踏み台を上がり、その縄に首を入れる。踏み台を蹴飛ばし、首を吊る。こんな計画を実行しなければならなくなかった、養母の言葉が頭をよぎる。

『二人とも、来年は高校生ね』

 養母は何気なくそう言ったのだった。

『将来のことは考えてる? 大人になったら、何がしたいの?』

 大人になる──その言葉に、杏樹と琉珂は無意識に顔を見合わせた。大人になる? 自分たちが? 嘘や犯罪、酷いことばかりの世界に放り込まれる? 純粋無垢な天使ではなく、汚い大人になってしまう?

 いや、そんな風には絶対にならない。

 琉珂が杏樹の心に持ち込んだ死と、杏樹が琉珂に与えた絆は、そうしてこの家の運命を決めた。

 子供はいずれ、大人になる。悪いものだと聞かされた大人に、汚いものだと聞かされた大人に、琉珂と杏樹を虐げた世界を作り上げた人々である、大人たちに。

 琉珂も、杏樹も、大人になんかなりたくなかった。悪くて汚くて嘘ばかりの大人たちを、この世から消してしまいたかった。

 もちろん、大人にならなくていいと、誰かが言ってくれるのなら、いつまでも養母が傍にいて、純真無垢な天使ちゃんと、そう呼んでくれるのならば、こんなことにはならなかった。けれど、当たり前のように、二人は大人にならねばならず、それは死を宣告されたも同じだった。

 だから、子供を大人にしようとする、悪い大人たちを殺し、その悪い大人になってしまう、自分たちも殺してしまわなければならない。そう思った琉珂と杏樹は、自分自身をも殺してしまった。ぶらん、ぶらんと、ぶら下がり、息をしない肉となった。

 大人たちはいざ知らず、これが二人が望んだ結末だった。そして、もう一つ、二階の部屋で寝息を立てる、未だもう少し子供でいられる子供たちへの伝言だった。

 その子供たちが目を覚まし、一目見れば分かるだろう。大人になるということが、どれほど恐ろしいことなのか。大人にならないためには、一体どうすればいいというのか。これが子供の最後なのだと、二人は身を以て幼い子供たちに教えたのだ。

 しかし、琉珂と杏樹の願いの外、明日の朝、この惨状を見た大人たちは言うだろう。これが虐待された子供の、その心の傷なのだと、この酷くて汚い世の中の、虐待をするような悪い大人の、犯した恐ろしい罪なのだと。そして、そんな世の中で命を失った子供のために、悲しみの涙を流すのだろう。守るべき子供たちを守れなかった、無力の罪を、当の子供に何度も何度も懺悔しながら。


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