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【読書メモ】戦後民主主義に僕から一票(内田樹)【#7】

いつもの内田さんの語り口で、昔に書いたブログや寄稿などを再編集した本です。内容もいつも通りで、非常に分かりやすいです。

あとがきに

僕から読者のみなさんへのお願いは、この本で読んで「それについては納得」という部分がありましたら、そのトピックが話題になった機会に遭遇したとき、ぜひ「自分の意見」として周りの方に話してほしいということです。

と書かれていました。自分の意見として話すことで、同じ意見の人を増やすという効果を狙っているのかもしれませんが、やはり本で読んだものをあたかも自分の意見のように話すというのは気が引けます。引用すべきではないかと思っています。ということで、3箇所ほど気になった部分を引用したいと思います。

イエスマンたちで埋め尽くされた組織では、トップは無謬であることが前提になっている。だから、メンバーにはシステムの欠陥を補正したり、失敗事例を精査する義務もないし、権利もない。
これは平時においてはたいへん効率的である。上位者がどれほど無意味なタスクを発令しても、誰も「これ、意味ないですよ」とか「やめた方がいいです」というような諫言をなさない。どんな命令でも遅滞なく末端まで示達される。素晴らしく効率的である。
でも、もう一つ致命的な欠陥がある。それは「無意味なタスク」が濫発されることである。別に無意味なタスクでみんなが額に汗して走り回っていても、それだけではシステムはクラッシュすることはない。ただ、みんなへとへとに疲れ、働き甲斐を見失い、意欲が削がれて、組織全体がどんより暗くなるというだけである。でも、それが続くと、そのうち「悪いこと」が起きる。というのは、どんなによく設計されたシステムでも、いつかは必ず想定外の出来事に遭遇して、危機的状況を迎えるからである。
上意下逹的組織では、そのような場合に対処することができない。というのは、トラブルというのは、システムの各所が同時多発的に不調を発することだからである。
専門家というのは他の専門家との協働作業ではじめてその力を発揮する。協働するためには、自分には何ができて、何ができないのか、自分はどのような知識や技術を提供できて、何を提供できないのかを言葉にできなければならない。非専門家に自分の専門について手際よく説明することができる人間でなければ専門家としては機能しない。それができない人間は、仮に特定領域での知識や技術がどれほどであっても、他の専門家との協働作業にかかわることができない。
論理的に思考するというのは幅跳びの助走のようなものだ。ある程度速度が乗ってきて、踏み切り線に来た時に、名探偵はそこで「ジャンプ」する。凡庸な警官たちは、そこで立ち止まる。まさに「ここで跳べ」という線で立ち止まってしまう。論理性とはつきつめていえば、そこで「跳ぶ」か「跳ばない」かの決断の差である。

最後のは研究者をしていて本当にそう思います。最近の研究職志望は、失敗したくないから絶対に自分で跳ぼうとしません。穴埋めが大好きです。他の論文はAという菌で試験しているので、Bという菌でやってみる。37度って条件でやってるので、25度でやってみる。他人の穴埋めみたいな研究していて楽しいのかな?そもそもこれって研究なのかな?って思うことが多々あります。大学での教育が上手くいってないんではないかと思っています。

終わり


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