死を知ることは終である。

先日祖父が亡くなったので葬式がありました。
皆一様に黒い服を着て悲しそうに振舞う大人たち。
もちろん自分も当たり前に黒スーツに数珠を手にして座っていました。
それをしり目に歌い踊りはしゃぐ2歳児の甥。
当然のように両親に取り押さえられ退場していきました。
「当然だ」と言わんばかりの大人たちの視線。

はたしてそうだろか??

少し視点を変えてみましょう。
今目の前で執り行われているのは「真言宗の葬式」であり、3人のお坊さんが見事なハーモニーで「お経」を唱えている。
皆椅子に座り、一様に黒い布で覆われ、粛々とそれを見守っている。
皆悲しそうであり、もちろん笑ってるものなどいない。
ある程度進むと「お焼香」が始まり定まった形式で皆がそれを行っていきます。

で?今やっていることの意味を一つでも説明できる大人はいるだろうか?

もちろんお坊さんや宗教に詳しい人は「説明できる!」という方もいるでしょう。しかし、「死とは何か?」という問いに答えられる人は一人もいないと思います。「死」についてまるで知らない大人たちが作ったシステム。つまりは「死にまつわるすべてのコンテンツ」は創作であり、コントである言えないか。

一方目の前ではしゃぐ2歳児はついこの間まで「死」同様の「分からない世界」にいた存在であり、生の視点に立つと一番死から遠い存在である。

「分からないもの」から出でて、「分からないもの」へ帰っていく私たち。
「コントをしている大人たち」と「今を全力で楽しんでいる子供」。

果たして弔いとはどちらのことを指すのだろうか?

とはいえ、自分も大人として全力でコントに付き合っていますし、周りを気にせずわめき散らかす2歳児は確かに周りの迷惑なのは確かです。両親の行動はまったくもって間違っていないと思います。

何かを否定するつもりは全くなくて、ただ「あたりまえの向こう側」を示してみただけです。イラっとした方はすいません。

「分からないこと」が創造の源である。

私たちは「死」について知りません。不思議な体験によって理解する方は一部おられると思いますが、結局実感を持ってそとに伝えられないのでは「分からないと大差ない」のです。むしろ世界にとっては謎をかき混ぜるだけでかえって理解を遠のかせる役割であるとまで思います。でもその逆に「分からないこと」はこの世をものすごく色とりどりにしています。問が答えを探すように、答えもまた問をさがして巡り、それが様々な形で現れているのがこの世界であり、私たちでもあるわけです。宗教も葬式という儀式も、「分からないもの」と付き合っていくために創造された生きている者の知恵の結晶にほかなりません。とても優しい文化です。

「当たり前」に問いを投げかけ、自分なりに答えを出してみる。でもそれは「わからないこと」に一時の名前を付けたにすぎないということを知ること。「分からないもの」がこの世界の根源であり、「分かろうとすること」がこの世界を生かしています。「死」は隠れることで「生」に意味を与えています。とても重要な視点です。

まとめ

全てを見てしまったとき。すべてを理解してしまうことがあるとすると、それは「死」を意味します。逆を言えば、分からないこと、知りたいことを追い求めるうちは死してもなお「生きている」のかもしれません。AIも急成長し、あらゆる答えを瞬時に教えてくれるような時代も間近にせまってきています。個人情報を監視されて「他人から分からない部分」を奪われてしまう社会も迫っています。「死」を知るとそこで終わりであり、分からないものがなくなるとそれは生きたまま死んでいると言えるでしょう。じつはそれも半分間違っていて、問と答えはフラクタルに重なっています。謎が消えると次の謎が現れるのが道理。その瞬間に大きな破壊が起こることでしょう。

分からないことを理解できる喜びと、分からないことを分からないものとして愛せる心の余裕が今は必要なのかなと思います。

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