虹という生き方について

こんにちわ、くろあです。久しぶりの投稿となります。

リアル仕事の忙しさもあったのですが、いろいろ思うところがあり筆が進まない日々が続いていました。「虹」を伝え広めることが自分の役割だと気づいてから、日々勉強してきました。言霊学を学び、カタカムナやフラワーオブライフを学び、自分の中ではある程度形になっているという実感はありますが、それを実践する段になると全くうまくいかないことが続きました。その中で日々悩み、考えて少しずつですが前進しているような気はします。今日は少しだけメモついでに残したいと思います。

この世の目的、「愛」とは「混ざりあったものの中から目的に沿ったものを選び、取り出し、並べ、広げること」です。「空」の中にポツンと生まれた自我が内観し境界線を持つことで、無限の中に有限が生まれます。完全と不完全がフラクタル構造となり渦を巻き、創造、維持、破壊を繰り返しながら螺旋状に広がっていきます。大きな循環の中に小さな循環が次々と生まれ、それが解放されていきながら成長し、空は調和され広がっていきます。果てなく巨大な循環であり、極小でもあり、ダイナミックでもあり静止しています。存在しているし何も起こっていないとも言えます。

 理解すればするほど、全てに意味があり、全てに意味はありません。循環という大きな流れで見ると、全ての出来事は必然であり、それは「愛」そのものであると言えます。我々の人生も感情も歴史もすべてが一粒の種であり、それを時間と空間をほぐすように体験し、調和し、経験として大きな循環に帰っていきます。すべては思考から始まり、思考としての高次のネットワークと物質としての低次の形とがシンクロし、5次元の自我で結びついています。それを「カタカムナ」とも言います。この世は世界の半分を隠すことで循環する虹色のトーラスです。

 と、ここまではとても大きな視点で、ここに入り込み過ぎると人間味が薄くなり、神の目線になってしまいます。この視点から人間の生き方をとらえるととても無慈悲でドライに感じてしまうことでしょう。高い視点には善悪などはなく、ただそこには流れとして愛があるだけです。「知りたい」という欲求が「知る」ことにより満足する。すべてはフラクタルなので、その心の働きの中にこの世が丸々入っているということです。

天津金木と虹

「1は2を生じ、2は3を生じ、3は万物を生ずる」といいますが、今の世の中の問題点がこの言葉の中に集約されています。例えば、「お金持ち」になりたいとします。「お金持ち」という状態が生じると「貧乏」という状態が生じます。それを「比較」するという関係性が生じ、それは「金融社会」を形成します。「金融社会」は自分の外側にある世界なので、自分の中心ではありません。そういうものを生きる目的とした精神状態を「天津金木」といいます。天津は「心」、金木は「物質」を差し、物質にとらわれた心という意味です。天津金木には帰るべき中心がないので、永遠に満足することがなく、もっともっとと欲望のままに無限ループを続けることになります。今の世は何をするにせよ、この状態から抜け出せず、無限にエネルギーを食いつぶす弱肉強食の関係性になりがちです。「光」「闇」、「正義」「悪」、「ポジティブ」「ネガティブ」。どちらか一方を執拗にありがたがり、一方を排除しようする精神性、2軸対立的な考え方、それらすべてがこれに当てはまります。

そういうと「天津金木にはなりたくない!」「天津金木は悪だ!」

すぐに皆そういいます。

でもそうじゃないんです。

なぜなら天津金木は「成長」を指すからです。

毎日目が覚めて、ご飯を食べて活動し、寝て次の日を迎える。

食べたエネルギーは体をめぐり活力となり命を支えてくれます。

やがて子供は大人になり、子供のままでは成しえなかった夢をかなえることができます。

この営みはすべて「天津金木」です。今こうして生きている。動いて喋って楽しんで苦しんで、笑って泣いているのは生きているからで、天津金木は「肉体を持って生きていることそのもの」を指します。とても尊いことなのです。

天津金木の状態は軸が複数ある駒のようなもので、常にエネルギーを補給しないと維持できません。自分の本質とは関係なく命は運用され、男女は惹かれあい、子を成し、命をつなげていくように、世界の半分が隠れて見えない状態でひたすらに走り続けている状態。未来が見えないからこそ、過去から学び経験を積み、生かし未来を創造しようとする意志が芽生えます。その意思が成長を促し、最終的に生まれてきた理由を見つけだし、元居た場所に帰える道を示してくれます。その状態に至ることを「天津太祝詞」といいます。それまでに歩んだ道のりが「虹」であり、「虹」を作ることがあなたが生まれてきた理由です。混沌とした空があなた色に調和されて虹となり、その一本の虹がさらに大きな虹として編み込まれ、天御中主(ワンネス)が求めた「自分とはなにか」を教えるワンピースとなるのです。


虹を伝える難しさ

初期の精神文明では「ありのままに生きる」ことが容易だったと思いますが、物質文明を長く続けた私たちは「ありのままに生きる」ことを知りません。この世の半分が見えないことも信じようともしません。「今カレーを食べている」のは「カレーが食べたかったから」というのはわかっても、思考によって現実が生まれているといってもピンとこないと人がほとんどだと思います。車が前に進むのは「エンジンとガソリンがあるから」ではなく、「自分が速く移動したいから」です。車より速い乗り物があるならそちらに乗るだけです。エンジンをどれだけバラバラにしても思考は見えません。科学なんてその程度のものなのです。

全てのものは思考から始まっています。

風に飛ばされた石ころも飛ばされたくて飛ばされています。

偶然発生したように見える竜巻も現れたくて現れています。

巨大な循環の中の意思の赴くまま、中にいる私たちは動かされているのかもしれません。自分の右手が自分の意思で動いているように感じても、右手の細胞一つ一つはバラバラの生命体です。細胞レベルでは自分を右手だなんて思ってないかもしれません。思考から始まることが分かれば、全ての物理現象はつじつまが合ってしまいます。そうなりたいからそうなっているのですから。


ではこれをどう生かして生きていけばいいのか?

これを説明しようとしても全然伝わりません。

伝えようとすればするほど誤解を生み、バランスが取れなくなっていきます。天津金木の精神性だと一方を説明すると説明していないことを説明したことになり誤解がどんどん生まれていきます。天津金木でありながらもそれを俯瞰で見れるようになれば、煩悩を持ったまま悟るという状態になれると思うのですが、それぞれの人の精神の段階や、環境、立場によって伝え方は変えていかないといけないなぁと思います。

 とりあえずはまず自分から、小さいことから始めていこうと思います。多分まだ自分のようなちっぽけな存在では話を聞いてもらえません。かといってそれの理由を外に求めると自分軸ではなくなってしまいます。最初は勢いで伝わると信じて疑わなかったのですが、なかなかどうして厄介なものだなぁと気づき困ったなぁといったところです。散文で申し訳ありませんが久しぶりなのでお許しくださいー。ではまた。






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