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2021年やめたこと・すてたもの

2021年買ってよかったもの、はじめてよかった事もあるけれど、その一方でやめてよかったもの、捨ててよかったものあるので書き残す。


1.リア友用Instagramアカウント

”リア友”という単語がすでに死語な気もするけれど、いつかの飲み会の場のノリで作成したリア友用Instagramのアカウントを削除した。自分で投稿した写真は10枚もなく、最後に投稿した写真は18年頃だった気がする。連絡取りたい友人とはLINEなり電話なりでコンタクトできるし、わざわざ友人の私生活や”私事ながら・・・”な人生イベント情報を能動的に取りに行って勝手に凹んで勝手に自己嫌悪に陥ることに疲れた。100%趣味用のアカウントで好きな情報だけに浸ることができる今がちょうどいい。
 自分の価値観と異なる人、自分と異なるライフステージの人たちを完全排除することは自分の視野を狭くしてしまうことは理解している。が、それ以上にそういう人たちと時間を共有することで削られていくHPを温存したいという気持ちが勝ってしまうくらいの状態なので無理しないようにしている。


2.写真や年賀状などの物理的な思い出たち
「これ何十年前の?」というレベルのタイムカプセル級の年賀状や写真、お手紙などが詰まった缶が家の中に複数個あった。ここ数年何回か引っ越しをしたけれど思い出缶たちを「捨てる」対象とそもそも見なしていなかった為、常に引っ越しを共にした。だけど毎年どんどん缶に詰め込みたいと思う物が増えてきて、このままずるずるいくと最終的には缶が何個あっても足りなくなるのでは?とふと思い立った。そこでプリンターのスキャン機能をつかってデータとしてPCに保存することにした。”捨てた”といいつつ、モノをデータにしてパソコンの中にしまっただけなので厳密には”移動”になるかもしれないが、部屋がスッキリした。

3.他人に期待すること
 プライベートではなく仕事の話。簡単に言うと「言われたこと以上に+αの成果を出せば上長や周りの人は褒めてくれる”だろう”」「”きっと”この案件は○○さんがやってくれるだろう」のような考えを捨てた。自分の意見や感情、相手にどうしてほしいか本人に対して伝えていないのに、過去の経験則から導き出した自分勝手な推測を確固たるものだと思い違いをしていけない。履き違えると自分の立っている地面が突然パカッと割れて落とし穴に落ちる。何度落とし穴に落ちて、何度這い上がったことか。(たまに這い上がるのすらやめたこともあったかも。)
 この意識改革については完全にマスターできておらず修行中ではあるけれど、相手が自分の意に反する行動に出た時の自分の中のモヤモヤイライラグラグラする感情は以前に比べて小さくなったと感じる。

4.等身大以上の自分を見せようとすること
 これも仕事の話。若手社員と言われるような年でもなくなり、かといってベテランと呼ばれるほどの年でもない。いろんな立場の人とやりとりをすることが増え、「ここでは無難にこういう発言をしたほうがいいだろう」「下手くそな質問はしないほうがいいだろう」など、等身大以上の自分を見せようとしてたくさん大ゴケした。布団にくるまって何度一人反省会をしたことか。大勢の目の前でずっこけても怪我するのは自分だけ。今の仕事で失敗をしたとしても直接的に人命にかかることはない。そう言い聞かせて少しずつ分からないものは分からないといい、トンチンカンなことであっても素直にそれ口にするようにしだした。周りからの反応は良くも悪くもさほど変化はなかった。まだまだ直前の直前で見栄を張ってしまい一人反省会を開くことも多々あるが、ダサいことをしても自分も他人の命は奪われないことを徐々に体感しているので、少しずつ少しずつ捨てていきたい。

5.数年、十数年後の未来は確実にくるということ
 数年先、数十年先のキャリアプラン、ライフプランを考えることは大事だし、私も今まさに今年を振り返った上で来年はどうしよう、なにしようと考えている。ただ、それはより充実した生活を過ごすための脳内予行練習であり、その未来は約束されたものではないということは意識しておきたい。
 2020年も2021年も行動制限がかかって自由に動けなかったからこそ、少し先の未来にいろんなものを先送りしてしまったのも事実。そんなだらだら生活をしている中、いきなり「君がこの先何年も生き続けるとは誰も約束していないぞ」という事実を突きつけられた。
 昔の自分の日記に書いてあった内容を思い出した。「死は隣り合わせというより、忘れた頃に突然肩を叩いてくるものだ」と。私ではなく大切な人の肩が叩かれた。
 人はとても忘れっぽい。昨日の夜ご飯何を食べたかすら忘れる。常に死を意識して毎日を過ごすことはとてつもない労力や負担がかかる。だからこそわざと忘れっぽいように仕込まれているのかもしれない。忘れっぽい事自体忘れて、ふとした時に思い出しては忘れ、忘れては思い出しを繰り返していくんだと思う。
 今の私は「忘れる」と「思い出す」の2面のうち「思い出す」ゾーンにいるが、知らぬ間に「忘れる」ゾーンに入っていくのかもしれない。
 忘れっぽくてもいい、だらしない平凡な毎日が続くことに飽き飽きしてもいい。ただ、そういう日々でさえもこれから先続くと約束されたものではないこと気づき、忘れ、そして思い出すことが必要なのだと感じた。

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