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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)17

第2章 凍てついた湖(1)

 人間の記憶なんて、案外都合のいいようにできているものだ。
 二度と思い出したくないイヤな体験は、時の経過と共に徐々に記憶から薄れていき、何年かが過ぎると完全に消滅してしまう。だから、「昔はよかった」と誰もが口癖のように呟くのだろう。いい思い出しか頭に残らないのだから、それは当然の帰結だった。
 だけど、去年の冬の美神湖での体験は、一年経った今でも鮮明に思い出すことができる。私でさえ、いまだに夢に見てうなされることがあるのだから、当事者である亮太が背負った苦しみは、生半可なものではなかっただろう。あの悲劇に今もまだとらわれている彼を責めることなど、たぶん誰にもできやしない。
 去年の冬休み。
 私たちK高校水泳部一同は、美神湖畔にある亮太の別荘で、二泊三日の合宿を行なうことを決めた。
 美神湖は、私たちの町から列車で二時間ほど揺られたあたりに広がる小さいながらも美しい湖で、周囲には広大な自然があふれ返っている。小さい頃から、ハイキングといえばこの湖へ来るのが常だった。
 合宿に参加したのは、私を含めてわずか五名。三年生が受験勉強や就職活動のためにクラブを退いたため、もともと少なかった水泳部員の数はさらに減少し、来期の存続が危ぶまれるまでになっていた。亮太という期待のエースがいなければ、すぐにでも廃部に追い込まれていたかもしれない。
 部員の数を増やすためには、どうすればいいか? それをとことんまで話し合うために計画された合宿だったが、往きの列車内で「部員募集のポスターを作ろう」と決めた以外に、進展はなにもなかった。あのとき起こった事件のせいで、そんなことを悠長に考える時間など、まったくなくなってしまったのだ──。

私たち一行は、駅から美神湖まで続く二キロあまりの行程を、重い荷物を背負ってひたすら歩き続けていた。
「ねえ、まだあ?」
 歩きながら絶えず愚痴をこぼしているのは、一年生の川嶋亜弥だった。新人の中では、一番活発な女の子だ。ショートカットの頭にちょこんと乗せたピンクのリボンが可愛らしく、目は赤ちゃんのようにくりくりと丸い。私の知る限りでは、男子部員の間で人気ナンバーワンの存在だった。
「もう! こんな寒い季節に、どうしてわざわざもっと寒い山奥までやって来なくちゃなんないのよお」
「おまえ、さっきからぎゃあぎゃあうるせえぞ」
 松岡幹成がすごみのきいた目で、亜弥を睨みつける。
「誰がおまえの荷物を持ってるのか、よく考えてからものをいえ。大体なんだよ、このくそ重たい荷物は。なにを詰め込んできたんだ?」
 一年生の中ではもっともガタイのいい幹成も、山道を一時間以上歩いてさすがに疲れているようだ。
「頑張れよ」
 亮太は笑いながら幹成の背中を叩き、軽やかな足取りで先へと進んでいく。
「さすが、亮太は元気だね」
 肩からずり落ちてきたスポーツバッグをかつぎ直して、私はいった。全身の筋肉が悲鳴をあげている。ここ数ヵ月は受験勉強に時間を奪われて、まったく泳いでいなかったため、身体もすっかりなまっていた。
 屈み込み、脚の筋肉を揉みほぐしていると、背後からけたたましいクラクションが聞こえた。振り返ると、白い軽トラックがエンジンを唸らせながら近づいてくる。私たちは慌てて、路肩に身体を寄せた。
 車一台がようやく通れる程度の幅員しかない未舗装路を、トラックは無謀なスピードで走り抜けていく。ボディには、駅前で見かけたスーパーマーケットのロゴがペイントされていた。砂煙が舞い上がり、私は激しく咳き込んだ。

つづく

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