自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)15
第1章 懐古の夜(14)
3(承前)
彼から受け取った紙片を広げ、しわを伸ばす。そこには赤のマジックで、斜め上がりの読みにくい文字が書き殴られていた。
おにいちゃんにもおなじくるしみをあじわってもらうからね T.S.
「T……S……」
そのイニシャルを見て、私が真っ先に思い浮かべたのは、まだあどけなさが残る一人の少年の姿だった。
櫻澤翼。
去年の冬に湖で溺れ死んでしまった可哀想な男の子。そして彼は、亮太をいつまでも苦しめ続ける存在でもあった。
「タチの悪い悪戯だよ。くだらない」
私は紙切れを引き裂くと、残骸を灰皿の中へ落とした。
「こんな悪戯にびくびくしてるの? 気にすることなんてないじゃない」
唇を噛み、こぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえる。
哀れだ。あまりにも哀れすぎる。あんなにも水を愛していた男が、今はこれほどまでに水を恐れているなんて……。
「なにかあったみたいだ」
謙の声で、窒息しそうなほど重たかった空気がほんのわずかだが薄れた。
「え? なに?」
まぶたの下を小指でいじりつつ、顔を上げる。
「おもてが騒がしいよ」
洗い物をしていた謙は、顎で入り口のほうを指し示した。なるほど。確かに店の外が騒がしくなっている。
「なんだろうな?」
マスターは煙草の火を揉み消すと、入り口のドアを開けた。店内に入り込んできた冷たい風が、私の頬をすうっと撫でていく。
おもて通りには人だかりができていた。皆、一様に川を見下ろし、なにやら囁き合っている。
「なにがあったんですか?」
野次馬の一人にそう尋ねるマスターの声が、店内の私たちにも聞こえてきた。
「自殺だよ。川に身投げしたらしい。なにがあったか知らないけど、馬鹿だねえ」
謙と顔を見合わせる。
「行ってみようよ」
私は、彼の腕を引っ張った。
「でも僕、店を離れられないし」
「じゃあ、亮太ついてきて。ケンちゃん、すぐ戻ってくるから」
亮太の腕を無理矢理引っ張って、店の外へと飛び出す。野次馬根性も少しはあったが、決してそれだけではなかった。もし川へ飛び込んだ人にまだ助かる見込みがあるのなら、多少は泳ぎの得意な自分が、なにかの役に立てるかもしれないと考えたのだ。
《愛夢》の正面には、向こう岸まで続く橋が架かっている。野次馬の噂話を聞く限りでは、どうやらその橋から身を投げたらしい。
《幸福橋》と名づけられた歩行者専用の小さな橋だ。欄干は一メートルほどの高さの鉄板でできているため、不注意で転落することは、まずあり得ない。ということはやはり、事故ではなく自殺なのだろう。
「引き上げたぞお」
川下から声が聞こえた。
「かなり水を飲んでるみたいだけど、心臓はまだ動いてる」
よかった。
その声に安堵する。周りの野次馬も皆、感嘆のため息を漏らしていた。中には、拍手をする者までいる。
つづく
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