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ミカンの缶詰、包丁、そして弟

 リンカは、ふと思い出す事がある。
 それは、血と痛みと、そして恐怖に歪んだヒロの顔。
 今でも左手に残る、傷痕。
 ジグザグに引き攣れている。
 肌色に溶け込んで、よく見なければ分からないけれど、触るたびに思い出す。
 リンカはそっと傷痕を撫でた。

 リンカと弟のヒロは、いつもお腹を空かせていた。
 家に食べ物はあった。
 お金もあった。
 母のマミが、二人が好きに食べることを嫌がったのだ。
 マミは、手作りにこだわった。
 食材も、高価な無農薬や、有機栽培のものを使用した。
 口の周りが真っ赤になる飴、黄色や黄緑色の丸いガム、友達が駄菓子屋で買うのをみて、リンカ達も母にねだった。
「あんなもの!」と、マミは吐き捨てるように言った。
「わざとらしい赤とか黄色!あんな体に悪い物を平気で食べさせるなんて、親の気がしれない!」
 マミが与えてくれるオヤツは、全て手作りだった。
 手作りのクッキー、ホットケーキ、アイスクリーム…。
 ただ、マミは絶望的に料理が下手だった。そして、根気がない。
 たいそうなお金を使い、材料を揃えるものの、大抵、途中で挫折してしまう。
 材料を量る、ということをしない。
 目分量だ。
 クッキーは、甘すぎたり塩辛かったり、ホットケーキはぺしゃんこで焦げている。アイスクリームは、固まりさえしない。
 でもマミは、頑なに“手作り”にこだわった。
 そしてリンカたちが美味しくない、とおやつを残すと、ふたりを打った。
「あんな、着色料のついた安い駄菓子よりも、手間もお金もかかってるのよ!
 不味いわけがないだろう!
 お前達のワガママだ!」
 二人は泣きながら、ごめんなさいを繰り返した。でも勢いのついた母の手は収まることはなく、手が痛いからと、ブラシや定規を持ち出して、二人はいつまでも打たれた。
 マミが打つのに疲れて、二人はようやく開放された。
 ヒロの小さな手に薄く血が滲んでいた。リンカの背中は、真っ赤に腫れ上がり、お風呂に入ると、熱いお湯に染みた。でも「痛い」なんて言うと、マミは「痛いはずがない、根性なしが!」と、ますます湯の温度を上げるのだ。
 だから、二人は何も言わなくなった。
 駄菓子屋で、楽しそうに買い食いをする友達を、二人で手をつないで、眺めていた。
 そんな二人をかわいそうだと、駄菓子屋のおばさんがこっそり飴をくれることもあった。
 でもその現場が母に見つかり、駄菓子屋のおばさんは、マミから散々に罵られ、二人に関わらなくなった。
 食事もおやつと同じ。
 マミは高価な魚や肉を買ってくるものの、腐らせてしまう。
 そして、腐らせた肉を料理して、二人に食べさせた。
 もったいないから、という理由で。
 二人は必死に食べた。マミを怒らすなんて、できない。
 でも、ギリギリ腐りかけた肉はどう調理しても、子供にはつらく、二人はよく下痢になった。
 それもマミを怒らせた。
 トイレが汚れると言うのだ。
 リンカは、汚れたトイレを掃除させられた。子供の手では完璧に綺麗にすることは難しく、その度にマミはリンカを打った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 リンカは泣きながら、うずくまった。
 逃げるとマミの怒りは酷くなる。
 ただ、マミの気がすむまで、耐えるしかないのだと、よく分かっていた。

 父は、いつしか家に帰って来なくなった。
 最初こそ、マミの料理に文句を言ったり、二人をかばったりしていた。
 でも父が二人をかばうたび、マミの体罰は激しくなった。
 そして、マミは父に暴言を吐くようになった。
「これはね、最高の材料を使った、シンプルでとても美味しいものなのよ!」
「掃除をさせるのは、しつけなの!小さい頃から習慣にしてないと、成長してから困るでしょ!」
「ろくに子育てもしないくせに、口をだすな!」
「あの女みたいに、教養もない、ろくな育ちでない人間にしたいの!?」
 父はその度、黙り込む。
 あの女…リンカには薄っすら記憶があった。
 父は、マミがヒロを妊娠中に、浮気をしたことがあるらしい。それを知ったマミは、大きなお腹を抱え、幼いリンカの手を引いて、女性の所に乗り込んだのだ。
 マミの鬼のような顔、座り込んでうつむいて泣き続ける女性。
 マミは、リンカをその女性の前に、乱暴に突き出した。
「ほら!こんな幼い子供がいるのよ!お腹にもこの子の弟がいるの!
 泥棒猫!」
 女性は土下座をして、マミにあやまり続けた。それでもマミは、いつまでも許さず、執拗に女性を責めた。
 マミは、女性から慰謝料を取ったらしかった。
 毟り取った、という言い方が相応しいくらい。
 父は離婚を考えたようだが、マミはそれを許さない。
「子供がふたりもいて、不倫して離婚したいだなんて!あんた、頭がおかしいわよ!キチガイよ!」
 マミはわめいた。
 父はあきらめて、何も言わなくなった。
 そして、家に帰って来なくなった。
 父の収入もマミが管理するようになった。
 父は僅かな小遣いで、何とかやり繰りしているようだった。
 誰も、マミに敵わないのだ。

 お腹を空かせたリンカ達。
 父は、会社でそれなりの地位にいたため、お中元やお歳暮が届いた。
 甘いジュースや、そうめん、ハム、そして果物の缶詰。
 マミは、それらを全てスーパーに持って行き、食材に交換してきた。
「ジュースも、ハムも、添加物だらけだからね!
 果物の缶詰なんて、甘いだけ!」
 リンカ達は、一口も食べることができない。
 それらは全て、肉や魚、野菜になる。食べられるのは、マミの手料理だけ。
 リンカは一度だけ、友達の家で果物の缶詰を食べたことがあった。
 ミカンの缶詰。甘いシロップを添えて、冷やされたそれは、今まで食べたことのない、美味しさだった。
 この果物は何?どこに売っているの?
 リンカは、友達のお母さんに、必死に聞いた。
 友達のお母さんは、戸惑いながらも、リンカに教えてくれた。
 これは、ミカンの缶詰なの、スーパーで売っているのよ、リンカちゃんは初めて食べたのね…、と。
 リンカは何杯もお代わりをした。
 そして、皿までなめた。
 リンカを気の毒に思ったのか、友人のお母さんは、帰り際にミカンの缶詰を持たせてくれた。
「貰い物で申し訳ないですと、お母さんに伝えてね」
 そのお母さんは優しく言って、リンカに缶詰を差し出した。
 リンカには分かっていた。この缶詰を持って帰ったら、どうなるか。
 マミの、鬼のような顔、そしていつまでも続く体罰。
 リンカはジッと缶詰を見た。
 でも、食べたい。
 ヒロにも食べさせてあげたい。
 冷たく冷やして、ガラスの器に入れて。
 ヒロは、口を大きく開けて笑うだろう。
 美味しいね!お姉ちゃん!と、言いながら、必死に食べるに違いない。
 ヒロの笑顔を、もうどれくらい見てないだろうか。
 リンカの笑顔も、同じなのだけれども。

 リンカは缶詰を家に持ち帰った。
 そして、冷蔵庫の奥深くに、隠した。
 冷蔵庫は、いつもいっぱいだった。
 マミが無計画に食材を買い込んでくるのだ。そして、冷蔵庫にぎゅうぎゅうに詰め込む。
 奥の方にある物は、異臭を放って、原形を留めていない物もある。ベトベトした汁が、冷蔵庫の棚に付いている。
 リンカは息を止めて、手がベトベトするのも我慢して、できるだけ奥に、缶詰を突っ込んだ。
 マミに見つからない場所、マミが汚いと、触らない場所。
 冷やして、マミの留守を見計らって、ヒロと食べるのだ。
 食器棚の奥にある、ガラスの器で。
 ふたりで、笑いながら食べるのだ。

 その日は、案外早くに訪れた。
 マミが、高校の同窓会に行くと言い出したのだ。
 今まで、同窓会の話など出なかったのに、マミは突然言い出した。
「だから、あんた達、ふたりで留守番できるよね?」
 マミは、きつく当てたパーマに、真っ赤な口紅を塗って、鏡に向かって新しい洋服を当てながら言った。
「できるよ、お母さん」
 リンカが言った。
 マミは、派手な洋服を着ながらフン!と鼻を鳴らした。
「食べる物は冷蔵庫にあるから。適当に料理して。台所はきちんと片付けるのよ。
それから」
 マミは、大ぶりのイヤリングを付けながら、続けた。
「ヒロをお風呂に入れて、綺麗に掃除しといて。お母さんさんは、シャワーでいいから。
 あんたはね、リンカ」
 母は初めてみるバックを手に待った。
「何をさせてもいい加減だから、お母さん、心配なのよ。
 後片付けも掃除もぐちゃぐちゃだし。
 そんなんじゃあ、きちんとした大人になれないわ」
 母はため息を付いて、高いヒールの靴を履いた。
「あんたたちの事を思うと、心配なんだけどね。本当は出かけたくないのだけれど」
 母の口元は歪んでいた。
 今にも、笑いだしそうだ。
「いつも断っていたし、今回はどうしてもって誘われたしね。
 お母さんがいないと、盛り上がらないんだって」
 リンカは、神妙な顔でうなずいた。
 このまま、マミが上機嫌で出かけてくれたら、いい。
 下手な事を言うと、何がマミの気に触るかわからない。
「じゃあ、行ってくるわ」
 マミは鼻歌を歌いながら、出かけて行った。
 マミが誰に会おうと、何をしようと、興味はない。
 リンカはミカンの缶詰を食べた痕跡を、マミに見つからず、いかに処分するか、そればかりを考えていた。

 ヒロは、無表情でおもちゃで遊んでいた。
 ずっと前、父がまだ家に帰って来ていた頃、買ってもらったミニカーだ。
塗装もはげ、動きも怪しいけれど、マミが見逃した数少ないおもちゃだった。
 ヒロの動きに少しだけ、柔らかさが見える。リンカは、自分より3歳下の弟を、悲しい気分で見た。
 リンカだってまだ、子供なのだ。でも、リンカはいつも思う。ヒロは、私が守ってあげる、と。
「ね、ヒロ。内緒のものがあるの」
 リンカはヒロの耳元で、ささやいた。誰も咎める者はいない。でも、リンカは後ろめたさを隠す事ができない。
「なに?お姉ちゃん」
 ヒロがリンカを見た。その目は、一瞬きらめいたものの、すぐに怯えた影を宿した。
 リンカはお腹に力を入れた。
 大丈夫。マミは、当分、帰って来ない。
「お楽しみだよ」
 ヒロをキッチンに連れて行った。そして、冷蔵庫の奥深くから、ミカンの缶詰を取り出した。
「これ、なに?」
 ヒロは、不思議そうに、缶詰を見た。
 リンカは、笑った。
「とっても美味しいもの。お姉ちゃんが貰って、冷やしておいたの」
「へえ」
 ヒロの目が輝いた。ゴクリと、喉を鳴らす音が聞こえた。
 リンカは食器棚の前に、椅子を持って行った。
 椅子に上り、ガラスの器を探した。昔、見たはずの器。暑い夏の日、父が氷を削って、イチゴのシロップをかけてくれたもの。
 器にはあった。リンカは慎重に、器を取り出した。
 キラキラしていたはずの器は、何だか曇って、薄汚れて見えた。ツルツルしていたはずなのに、ペタペタする。
 リンカは気を取り直して、器をふたつ、テーブルに置いた。
「なに、これ。初めて見る」
 ヒロガ叫んだ。そして、こわごわと器を触った。
「これに、缶詰の中のミカンを入れて食べるの。甘い汁も一緒にね。
 世界で一番美味しい食べ物だよ」
 リンカは歌うように言った。
 喉を鳴らして、ヒロが笑った。
 缶詰を降ってみる。チャプチャプと、美味しそうな音が聞こえた。
「どうやって開けるの?」
 期待を込めてヒロが言った。
「えっと、確か…」
 リンカは缶詰を隅々まで見た。
 缶詰は、頑丈な金属で出来ていて、ピッタリとして、隙間がなかった。
 押しても、びくともしない。
 試しに、テーブルに打ち付けてみた。
 チャプンと言うだけで、へこみもしない。
「お姉ちゃん…」
 ヒロが怯えた声を出した。
「大丈夫、軽く打っただけだから。テーブルは何ともないよ。
 必ず開けるからね」
 缶詰を開けるところは、見ていない。でも必ず、何か方法があるはずだ。
 リンカはキッチンを見渡した。そして、ふと、思いついた。
 鋭いものを突き刺せば良い。そうすれば、開くはずだ。
 シンクの下の扉を開けた。
 包丁があった。
 リンカ一番重い包丁を取り出した。
 これは魚の骨も切れるから、そう言ってマミが買って来た包丁だ。
 でも、マミが使うのを一度も見たことがない。
 リンカは包丁の柄を握りしめた。
 リンカには重すぎる包丁だった。両手で握りしめて、テーブルの上の缶詰に、切っ先を当てた。
「お姉ちゃん」
 ヒロが小さな声で呟いた。
 リンカは、慎重に、ゆっくり両手に力を込めた。
 缶詰はびくともしない。
 リンカは汗で手が滑りそうになり、慌てて力を抜いた。
「難しいや」
 ふぅ、と息を吐いた。
 ヒロが言う。
「お姉ちゃん、僕はいいよ。食べられなくても。見てるだけで、いいよ」
「大丈夫。お姉ちゃんが、開けたける」
 可哀想に、ヒロはすっかり怯えていた。
 何かあると、マミに怒鳴られる生活。
 ヒロは、少しでも変わった事があると、パニックになるのだ。
 だから少しでも、楽しみを見つけたい。ヒロとふたりで、「美味しいね」と、笑い合いたい。
 リンカは左手で缶詰を固定した。そして、右手で包丁をしっかりと握り直した。
 そして、右手にゆっくりと力を込めた。包丁の切っ先が、缶詰に穴を開ける事を願いながら。
「ろくなもんじゃないわ!」
 急に玄関のドアが開いた。
 大きな声が聞こえた。
 マミが帰って来たのだ。それも、最悪に不機嫌な状態で。
 こんなに早く返ってくるなんて。
 最悪だ。

 リンカの握りしめた包丁は、滑って、その切っ先は左手の甲にに刺さった。
 鋭い痛みが走った。リンカは必死に声を抑えた。
 ヒロは横で、真っ青な顔をしていた。今にも倒れそうだった。
 何とかしなければー、マミがキッチンに来るまでに、何とかしなければー、リンカは痛みと出血で息ができなかった。
「何してるの?ふたりともいないの?静かすぎるわよ!!」
 マミが玄関を上がる音がする。最高に、不機嫌な時の足音だ。
「どうせろくな事をしてないんでしょ!
 ちょっと留守にすると…」
 キッチンに入ってきたマミが、悲鳴を上げた。
 額に汗をにじませ、包丁を握り手から血を流しているリンカ、その横でヒイヒイと、肩を揺らして呼吸しているヒロ。
 マミの顔が歪んだ。鬼だ。
「何してるのよ、あんたたたち!!バカじゃないの!」
 リンカは、「ごめんなさい」と言おうとした。でも、口を開けられない。今、なにか言おうとしたら、叫びそうだった。
 ヒロもまた、硬直していた。ヒイヒイと呼吸しながら、懸命に涙をこらえているのが、わかる。
 マミの表情が変わった。
「はあん」
 そう言って、腰に手を当てた。
「どうしたの、その缶詰」
 声には、あざけりと辛らつさがあった。
 リンカは答えた。痛みをこらえながら、冷静に。マミを、なるべく刺激しないよう。
 でも、そんな努力はもう、意味がないけれど。
「友達に…もらったの…」
 左手に包丁が喰い込む。包丁を持つ右手が限界だった。
「友達、ねえ」
 マミがゆっくりと近付いてきた。そして、素っ頓狂な声で言う。
「あら、大変!手に包丁が刺さってるわよ」
 痛みと恐怖で、リンカは目の前が真っ暗になりそうだった。
 ヒロは、よろけながらも、倒れまいと踏ん張っている。
「ヒロ、どうしたの。フラフラしてるじやないの」
 マミの言葉に、ヒロは必死に頭を振った。
「大丈夫だよ」
 蚊の鳴くような声で答える。
 マミは笑った。
「お姉ちゃんが大変なのに、あんたって冷たい子だね」
 そして、リンカを見た。
「何で包丁を持ち出したの」
「缶詰を開けたかったの」
「へえ。あんたってさ」
 マミはますます、嬉しそうだった。
「バカだね。本当のバカ。
 缶詰はさ、缶切で開けるのよ。
 包丁で開けるなんてさ」
 マミがゲラゲラ笑った。
「開けられる分けがないでしょ」
 そして、リンカの右手を、ちょんと、突付いた。
 痺れ手汗をかいている右手から、包丁が滑り落ちそうになった。
 左手に鋭い痛みが走る。血が、吹きでる。
 でも、叫ぶ事はできない。叫べば、マミは興奮して、何をされるか分からない。
「ごめん…なさい…」
 涙をボロボロこぼしなら、シャクリ上げるのを必死に耐えて、リンカは言った。
「ね、ね。あんた達って、こういうの言わないの?
 ごめんですんだら、警察はいらない」
 そしてマミは、リンカの右手を掴もうとした。
 もうダメだー、リンカは思った。
 喰い込んだ包丁は血で滑りそうだった。
 マミはゆっくりと、手を伸ばしてくる。

「やーめた」
 突然、マミが言った。
「新しい服に、血が付いたら大変だ」
 そして、包丁に手をかけた。包丁が、左手に更に喰い込む。
「あ、あ…」
 声にならない声。リンカは唇を噛み締めた。
「これは良くないわよねえ、さすがにねえ。
 あんたがバカだからこんな事になったんだけどね。さすがにねえ。
 取ろっか?」
 マミは包丁に力をかけた。
 リンカの痛みは、限界を超えていた。
 マミは、無言で包丁からリンカの手をゆっくりと剥がしていった。
 包丁が、左右に揺れる。
 血が、流れる。
「おっとお」
 マミが、手拭きタオルを手に取った。
 包丁が、抜けた。血が、吹き出す。
 マミは、タオルを押し付けてきた。
「ギュッと押さえとくのよ。
 もう!この包丁、使えなくなったわ!」
 クリーム色のタオルが赤く染まる。
 痛い。
 頭がズキズキしている。
「ごめんなさい、お母さん」
 ヒロガ声を振り絞って言った。
「病院とか、行かなくて良いの?」
「はあ?」
 マミはシンクに包丁を投げ入れ、大きなため息をついた。
「大げさなのよ、あんた達。
 タオルで押さえとけば、治る、治る」
 そして、タオルをギュッと押さえた。
 その痛みは酷く、リンカは倒れそうだった。
「タオルが赤いよ」
 ヒロが言った。マミに口答えなんてしたことなかったのに。
 マミはチッと舌打ちをした。
「本当にどいつもこいつも…
 あの、父親の血が入ってるだけあるよな!」
 マミが、ミカンの缶詰をゴミ箱に捨てた。
「これからは、勝手な事をしないの!わかった?!」
 リンカとヒロはうなずいた。

 包丁の事があって、数年がたち、ヒロは自殺した。
 包丁で、自分の首を掻き切ったのだ。
 躊躇いもなく、傷は深かった。血が飛び散り、ヒロの部屋は真っ赤になった。
 それを見て、マミは青くなった。
「どうしよう、どうしよう」
 血の海に横たわる、弟。
 リンカは救急車を呼び、ヒロに近付いた。
 ヒロの血まみれの顔は、微笑んでいた。
 マミは泣き叫んでいた。救急隊が到着して、ヒロに心臓マッサージをほどこした。
 首筋に当てた、大きなガーゼはあっという間に赤く染まった。
「何してるのよ!私の可愛い息子に!勝手に触らないでよ!」
 救急隊に割って入ろうとした。
 リンカは、マミを思いきり、引っ張った。
「いい加減にしてよ!」
 それでも泣きわめくマミ。リンカは、マミの頬を打った。
 マミの目に、恐怖が浮かんだ。マミの目線と、リンカの目線は、同じだった。
 マミを残して、リンカは救急車に乗り込んだ。

 その後はー、リンカは左手の傷あとを触りながら思い出す。
 冷たくなって、真っ白のヒロの顔。可哀想なくらい、細い体。
 父親がやって来た。マミを罵った。マミも負けじと、応戦している。
 もう、どうでも良かった。
 リンカは、無表情のまま、ヒロの葬式で掴み合うふたりを見ていた。
 どうでも良い。
 ヒロは、もう、眼を開けることはない。
「お姉ちゃん」と、呼んでくることもない。
 ミカンの缶詰を食べさせてあけたかったな、リンカは呟いた。
 お楽しみだよ!とささやいた時の、ヒロの顔。
 ぱあっと明るくっなったあの、顔。
 ヒロがそんな風に笑ったのは、あの時だけだったな、とリンカは思い出す。
 左手の傷あとに、涙が落ちた。
 涙は、後から後から落ちて、まるであの時に吹き出した血のようだった。
 ヒロに会いたいー、リンカは小さく呟いた。
 ヒロのあの、小さな手を握って、ふたりでどこまでも歩いていきたい。
 ここではない、どこか。
 ヒロは、あの笑顔を見せてかれるだろう。
 そしてリンカも、大きな口を開けて笑うのだ。
 ヒロ、そっちはとう?
 寒くない?寂しくない?
 そっちで、たくさんミカンの缶詰を食べてね。お腹がはち切れるくらい、食べてね。
 お姉ちゃんはもう少し、こっちにいるよ、てもね。
 リンカは空を見上げた。
 眩しいほどの青い空。
 いつか、ううん、もしかしたら近いうちに、ヒロに会いに行くかもしれない。
 そしたらふたりで、缶切りでミカンの缶詰を開けて、ガラスの器に盛って食べようね。
 約束だよ、ヒロ。

 
 
 
 

 


 
 


 

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