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なぜ若者たちは同調・共感・理解し合うのか?

年始に江の島ー鎌倉と初詣のはしごをしてきた。
三ヶ日ではなく4日になってからだったのだが、やはり観光地でもあるためそこは人だらけ。詣でるというよりも、人の群れに紛れ込みに行ったようなものだ
コミケの人混みも嫌って行かなくなったというのに、新年早々から何をしてるのだろうか。

待機列に並んでいると、たっぷりと時間はあるので周囲を観察していた。やはり、家族連れは多く、カップルで来ている人たちもそこそこいる。
そして、それと同時に目立ったグループがあった。

男のみの集団だ。

声の感じや会話から推測するに、大学生あたりと思われる。少なくとも、二十代だろう。
それも、複数グループ目撃した。
中には、中国人(もしくは台湾人)らしき若者集団も。
そこに女性は入っていない。純粋に男のみで構成されたグループだ。

いや、別に彼らを寂しい人たちと言いたいわけではない。
むしろ、おじさん独り身で初詣にきている筆者の方が断然寂しい。
そう、寂しい。

この場合、初詣は全く関係ない。単に、筆者が初詣の際に改めて感じたことだからだ。別の場面で、何度も似たような感覚を味わっている。例えば、着ぐるみ界隈がそれだ。
肝心なのは、今の若者(特に男性)が、同性同士で行動しているのが目立つ、という点である。
しかも、随分と親密に行動しているように感じられる。

再度注意を入れるが、こう書いているとLGBTQの話? と勘違いされる方も出るかもしれない。
そうではない。見ていて、そこに恋愛感情のような感覚はあまり察せられないからだ。恋愛感情とは別に、若者の親密性が上がっているように感じてならない。
麻雀仲間が一夜を誰かの家で過ごすとは全く違う。
もっと本質的なところで親密性を感じ取り合う関係だ。

そこにあるのは、
同調・共感・理解
からくる親密性と筆者は感じ取っている。


筆者がまだ高校生から二十代の頃を思い出すと、随分と孤独な思いをしていた。(今でも独り身で初詣に行く人間なのだが)
高校ではフィーリングが合うようなクラスメイトもほぼいなく、大抵1人で行動してたものである。高校生の頃といえば、深夜ラジオやプロ野球のことくらいしか興味はなかった。

今思い返すと誰もが共感できるような趣味趣向を持ち合わせていなかったからかもしれない。あの頃は、ちょうどJリーグが立ち上がる頃だし、ゲームするような人間は分かりやすく『オタク』と呼ばれてさげすまされる時代でもあった。

気が弱かったと言えばそうなのだが、だからと言え完全に寡黙を突き通してたわけでもない。
ただ、話しかけたい相手は少なかった。サッカーに興味は向かなかったし、イケイケな空気は肌に合わなかった。
だから、親密な関係など到底築けるわけもない。
そういう人間は、あの当時は筆者以外でも孤立していたに違いない。


では、今はどうなのだろうか?

一つ、あの頃と大きな違いが現れている。
それが、『SNS』なのだ。

いや、オタクという存在の空気感も大きく変わったが。
それ以上に影響を与えているのがSNSではなかろうか。

そして、そこで重要になってくるのが
『同調』『共感』『理解』なのである。

どういうことか?

自分の場合は、周囲に感覚を共有できる存在が皆無で孤立しがちだった。
しかし、今はSNSを通して同じ感覚を共有できる理解者を探し当てることができる。
しかも、比較的容易に見つけ、繋がることができる。

残念ながら、筆者の時代はまだパソコン通信はあったものの、SNSなどなかった。
そもそもスマフォはなく、パソコンも何十万もする代物で、高校生が気軽に手にするものではなかった。

時代は変わった。
今や、高校生でもスマフォを持ち歩いてる子は多い。
大学生になれば、持ってない人を探す方が大変だろう。
同じ趣味、何かに対して同じ感想を抱く人たちとコミュニケーションを取るのは容易だ。
あの時の自分のように、深夜ラジオを夢中になって聴いてる存在が周りに見受けられず孤立するようなことはない。
周囲にいなくても、ネットを覗けばいくらでもそこにいるし、いくらでも共通の話題を出せる。盛り上がれる。
それが、関東と関西の人間だろうと、北海道と沖縄の人間だろうと。

その趣味が特殊であればあるほど、その親密性は強化されるのではなかろうか。
それほど、分かってくれる、理解してくれるという感覚は嬉しくありがたい。

もしかしたら、筆者が江の島で見かけた男性のみの若者グループは、共感や理解で繋がりあっているのかもしれない。
そこに惰性しかない関係なら、わざわざ寒い正月から半端ない人混みの中、男のみで初詣に行こうとは思わないだろう。
親密性があるからこそ、その面倒さを覚悟の上で行く気になったのではなかろうか。


ここまで書いて、またまた注意を入れるが、筆者は何も若者全部がこの手の関係になってるとは言わない。
恐らく、昔ながらの体育会系やオラオラ系な人間はまた独自の人間関係を構築しているだろう。
空気を読まない、読めない人間もまた、対象外である。そういう人間は他者をお構いなくグイグイ攻めてくるから。
なかなか理解されないような何かを抱えている人間だからこそ、こういう状況になるのではなかろうか? ということだ。

しかし、どちらにしろ今の世の中、様々なコンテンツにおいてこの『共感』や「同調」は重要なキーワードとなっている。
このキーワードを支点にしてモノ・コト作りしたり、世の中を読み解いていくのもいいのではなかろうか。
共感されるコンテンツほど、消費しやすく、拡散されやすくもある。

筆者も、もう少し共感や同調を意識した活動に励んでいきたい。

同世代のおじさんたちに共感と理解が得られる文が書ければ、もっと読まれるnoteになるのかも。

支援いただけるとより幅広いイベントなどを見聞できます、何卒、宜しくお願い致します。