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若い時には思考する場が必要なのでは?

先日、ふとした機会でカヤックさんと別視点さんの合同企画『地域盛り上げ大ブレスト会』に参加してきた。

内容は、何人かでグループを作り地域課題をテーマにブレスト、その後にアイデアを発表するというもの。
最初にカヤックさんの方からカヤック流(?)のブレスト方法をレクチャーしていただいた。心理的安全性を強調し、相手のアイデアがいくら突飛な内容でもありふれていても否定はしないことがポイントである。「そんなの無理」「以前やって失敗した」「予算はどうすんだよ?」などの否定的な発言は禁止。
また、カヤック流だなと感じられたのは、そこでガヤ芸人のように「いいね!」などと同意するような空気を活発に出していたこと。また、そこに笑いの空気までもさりげなく入れていたところに他社との違いが見てとれた。確かに、こういう空気ならば突飛な意見でもむしろ積極的に出していこうかなと思えてもくる。普段黙っているような筆者も、空気に乗せられて積極的に質問してしまった。そういう空気作りのうまさに感心をしたものだ。

実際に出来上がったアイデアも奇抜なようでいてしっかりと実践的でもありそのバランスと発想力に正直脱帽したものである。
中には現役大学生も混じり、若いながらもしっかりとした考えを持っていることにはさらなる驚きを隠せなかった。


○機会を掴めるかよりも、機会そのものがあるか問題

非常に有意義で意味のある時間が過ごせたと思えたのだが、今回はこのイベントのレポではない。
そこでふと感じたことを俎上に載せたい。

件のように若いながらもベテラン社会人に混じりながら積極的に意見を述べる大学生もいるのだが、そういう人間を見ていると感心しつつあることを考え込んでしまう。
こういうできる(意識高い)若者は、早ければ10代のうちからチャンスを掴み取ろうと積極的に行動しているなと。

今までの人生の中で、何人かの様々なやり手たちを見てきたが、話を聞いていると大体が若いうちから積極的に行動しているようだ。
早い人は、10代のうちから起業につながる何かをしていたらしい。
やはり、できる人間は持っているものが違うし、チャンスを活かそうとする意識が強い。

とはいえ、これって本人が努力した賜物だけなのだろうか……

とふと思えてしまう時もある。

単刀直入に言えば、親の資本の影響や住んでいる場所などの環境も影響していない? ということである。
親が知性あり、小さいうちから教育に力を入れ、またそういう子どもたちばかりの中で育った場合、意識高く動くのが当たり前な感覚にならないだろうかと。

こうした感覚を研ぎ澄ませる環境に入れるかどうか問題が、実は人生を左右する要素になっていないかどうか?

逆に言えば、ある程度の素質を持っていても、親が知性や金銭的に貧弱であったり、平均的でもあまりにもやる気のない人間が周囲を囲っている中で育った場合、意識が高められることがないのではないだろうかと。

この手の話はたまにだが聞くんだよね。
実際に、筆者も30間際になって初めて文学フリマに行った時に、あまりにも文学の濃い空気が会場を包み込んで衝撃を覚えたものである。それまで、大学も行かず純文学を自ら好んで読んでいるような人間も周りにほとんどいない中で文学フリマに訪れただけに、あの時の衝撃はかなり強かったのを覚えている。ましてや、作品批評や哲学をやるような人間など別次元と思っていたが、実際に目の前に現れ、次第に交流を始めた時はかなりの焦りを覚えたものだ。
それが目覚めるきっかけであり、30にしてようやく垣間見た世界である。

しかし、そこにいた多くの人間はきっと遅くとも大学時代には気がつけた世界なのだろう。
筆者の体験が今回のことにどこまで近いかは分からないが、こうして知らないまま人生を送り続ける人は多いはずだ。

○大人たちが子どもたちへ早いうちに機会を与えられるか

こういう経験や意識高い若者を見て、筆者は早いうちからの体験と経験値を高めていくことへの重要性にようやく気がついたのである。

だからこそ思うのが、まだ気がつけていない若い人、特にまだ中学生や高校生の人たちにこの大切さを知ってもらえる機会を与えられないかということだ。特にその世代の(主に学力的に)平均から少し低い位置にいる若者に(本当に低い人は、まず先に別のプログラムが必要だろう)。
できる人間はできる人間通しでつるむだろうし、親が裕福な人も多く自然と経験値も上がるだろう。問題は、平均的な人である。ここら辺に位置する若者は、もしかしたら機会と経験さえあれば成長する伸び代があるかもしれないからだ。知らないが故に停滞してるかもしれない。だからこそ、そういう人間にも機会を与えられる案はないかと考えてしまう。

おそらく、一番重要なのは親と教師たちだろう。
とはいえ、それぞれに問題があるだろうし、ノウハウを与えたとしてもうまくできるかどうか。
なによりも、教師はただでさえ残業多く手が回らないと聞く。
ならば、教師の中に新しい役職を設置して、社会人の中から募集すればとも思えるが、これはできるのだろうか?
体験や進路へのサポートを専門にする役職だ。なんなら、他の事務的作業も兼ねていいだろう。こういう存在は本当に大切だと思うし、社会人を経験したからこそできると思える。

しかし、こういう新たな仕組みはなかなか構築するのも難しいだろう。
ならば、民間の力である。
民間側が積極的に門徒を開いて体験する大切さを知ってもらうプログラムを提供できれば。

しかし、これはこれで問題がある。
学校でやれば半ば強制的だが、民間だと希望者しか参加しないだろう。
集まってくる人間は、おそらくは最初から意識高い若者ばかりだろう。
筆者が望むのは、いかにして伸び代ある現状平均から少し低い位置にいる若者の参加である。こういう人間にも積極的に参加してくれる仕組みを用意しなければならないだろう。

○若者の興味を大人が積極的にサポートすべきか

自分が気がついたきっかけは文学フリマだ。
興味のあるイベントだからこそ、わざわざ東京(当時は秋葉原)まで出向いてその世界を体験してきたのである。

参加して欲しい人間が興味あるイベントを提供し、一緒に作る仲間として参加してもらえればいいのではないだろうか?

興味あるジャンルならば、自ら積極的にアイデアも出すだろうし、スタッフとして動きたくもなるだろう。
たとえアイデアが出なくても、先人たちが積極的に示唆的な意見を提示することにより、アイデア出しを促すことができれば大きな影響を与えることにもなる。

そういう場の提供とサポートを周囲の人間が手伝ってやれればいいのではないだろうか。

また、そこに対して経験豊富な社会人も積極的に関わり、平均的な若者の伸び代を伸ばす手伝いをしてくれれば。

○まとめ

機会の格差は、個人の潜在能力の開花を阻み、大袈裟にいえば社会全体の発展を制限する深刻な問題と捉えられる。
公教育の改革、民間の創造的なアプローチ、そして日常生活に溶け込んだ革新的な学習機会の創出などの可能性を探る必要性をもっと検討しなければ。
重要なのは、これらの取り組みを単発的なものではなく、社会全体で持続的に推進していくことだ。教育者、企業、地域コミュニティ、そして我々一人一人が、それぞれの立場でできることから始めることが、真の変化をもたらす鍵となるだろう。
機会の格差の解消は、単に公平性の問題だけでなく、社会全体の潜在能力を最大限に引き出すための投資でもあると思える。多様な才能が花開く社会は、より創造的で、レジリエントな未来を築くことになるのではなかろうか。

支援いただけるとより幅広いイベントなどを見聞できます、何卒、宜しくお願い致します。