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戦う姿を見せるということ

前回の記事でゲームとゲーマーを取り巻く環境の変化、そしてフルタイムゲーマーの収支等について触れた。今回はゲームを見るブームと、それによってもたらされた弊害について書こうと思う。

戦う姿の発信と興行化

近年、インターネットの普及や伝達媒体の発展により、誰でも容易に「自分」というものが発信できるようになった。そういった他者の発信を受け取ることが日常となっている人も多いだろう。ゲーム自体の在り方もその影響を強く受けており、以前は自分でプレイすることこそがゲームの意義と捉えられていたが、自分がゲームをする姿が発信できるようになり、そしてそれを受け取った人々がゲームを見ることに楽しみを覚えるようになった。もう既に、人がゲームをプレイする姿を見ることは一つの娯楽として確立されている。

若年層の急速なスマートフォン普及もゲームを見るブームを加速させた

人間の欲望に限りはなく、例えば、美味しいものの味に慣れてしまうと、もっと美味しいものが知りたくなるように、ゲームプレイに関してもより良いものがあるなら時間を費やしてでも、お金を支払ってでも見たいと思うことは、他の娯楽と比較しても自然な流れと感じる。
そういったニーズも相まって、ゲームを競ってプレイするプレイヤー(競技者)という存在が生まれ、そして彼らが戦うステージや戦うためのゲームタイトルが作られ続けることとなる。何故ならプレイヤーの強さ、上手さを測るには、プレイヤー同士で競わせるのが最もわかりやすいからだ。本年のトレンドであるプロリーグの開催も、観客に試合を定期的に見せるための一つの答えだ。人が競い合う姿を観戦する行為は古代から続く娯楽であり、さながらプロリーグは現代版コロッセオと言えよう。

円形闘技場での生死を賭けた闘争は、戦いの形態を変えて現代に蘇る

人と人とが戦う以上、そこには必ず勝者と敗者が生まれる。そして勝った姿も、負けた姿も、等しく画面に映し出される。その姿に感情が揺り動かされ、観客はより熱狂するのだが、実際に”コロッセオ”での戦いに敗れたプレイヤーは、自分が負けた後の未来を想像できていただろうか。

見るブームの弊害

あくまでコロッセオは比喩表現であり、プレイヤーにとっての敗北=人生の終焉では無い。そして勝つということも簡単に成し遂げられるものでもない。幸い、今はプレイヤーとしての腕を世に知らしめる場は多数用意されている。つまりは挽回するチャンスがあるということだ。特に、実力が劣っていたり拮抗してる場で勝ち切るのはなかなかに難しい。勝つために試行回数が必要となる場合も当然あるだろう。

ただ、その考えは戦いを見にきている観客には当てはまらない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉もあるように、勝者への称賛の言葉が生まれる裏には、敗者への辛辣な言葉も生まれてしまう。そして残酷なことに、発信したその言葉は、他者の発信を受け取ることが日常化したこの世界では、見ようと意識していなくても、当人の下に飛び込んできてしまうのだ。残念ながら負ける前には予期していなかったその心無い言葉に打ちのめされて、プレイヤーとしての道を諦めてしまう者も少なくない。ゲームを見るブームの到来により、プレイヤーは発信された「自分」に関して不特定多数の人々から批評される時代となったのだ。

次の戦いに進むために

もしあなたがこれからプレイヤーとして活動をしたいと考えているならば、練習風景でもいい、自分の考えを述べるだけでもいい、あなたがゲームに対して真摯に向き合っているとわかるように世界に向けて継続的に発信しよう。私は人を支えるのは人だと考えていて、特に「好き」という感情は強烈に人を突き動かす。あなたが勝利のために努力する姿はファンを生む。そしてファンの言葉は、きっとあなたを前進させるモチベーションとなってくれるはずだ。生まれながらにして完璧な人間などおらず、だからこそ人は人の成長に感動する。あなたの周りに集まったファンは、時にはあなたの苦しみを癒し、時にはあなたをあるべき姿へ導き、そしてあなたの勝利を自分のことのように喜んでくれるだろう。

勿論、聞きたい言葉ばかりを汲み取っていても成長は生まれない。反省すべきことは反省し、真摯に聞くべき時は真摯に聞き、次の戦いに活かそう。繰り返しになるが、今は指向性など意識せずとも人の声は届く。だからこそ、自分がやるべきことを見失わなわないように、そして次の戦いにチャレンジするために、敗れても心折れずに前を向くための環境作りが必要だと考えている。

戦う姿を見せるということにしっかりと向き合うことができるかが、今の時代を生きるプレイヤーにとって最も重要な資質なのかもしれない。

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