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リベンジ九州旅・水郷の歌と立花編①

リベンジ旅行記、二日目に突入です。

この日は早朝より出発。福岡市内某所を抜け、西鉄は天神大牟田線を行くことしばらく……到着しました、柳川でございます!

改札を降りてまず目にするのは噂に聞いていたお雛様! そして『さげもん』! いわゆる「つるし雛」というやつですが、柳川ではこれを『さげもん』と呼び伝統工芸として作り伝えているのです。

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かわいい~~~!!!

先に結論だけ言うと、一泊二日の柳川市滞在、めちゃくちゃこの町が気に入ってしまいました。これはもう一目惚れに近いと言っても過言ではない。勿論、この町の一部しか体感していないわけですが、本当に居心地がよく、暖かく、素敵な景色がたくさんあった素晴らしい場所だったわけです。この旅行記では、そんな柳川の魅力をちょっとだけお伝えできたらなと思います。

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駅で早速見つけたもの、『さげもん』ともう一つは日本が誇る詩人『北原白秋』先生です。そう、この水郷・柳川は北原白秋先生の生家がある町でもあるのです! 駅からテンションが上がりまくっていてなかなか駅から出れない!(あるある)とりあえず白秋先生のお話はまた次の記事にすることにして……長くなっちゃうから!

初となる柳川を案内をしてくれる友人(昨日までとはまた違う友人)と合流し、いざゆかん待ちに待った柳川めぐり! まずはここ!

三柱神社(みはしらじんじゃ)
ここは柳川藩の基盤を築いた初代藩主・立花宗茂公、その岳父・戸次道雪そして宗茂室である誾千代姫の三名を三神として祀った神社です。
……はい、柳川最大の魅力、もうおわかりでしょう。九州の雄・大友家の武働きの一役を担い、その名を轟かせた立花家こそ、今回私が柳川へ訪れたい最大の目的であったのです!

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三柱神社は、旧城下町から堀を一本隔てた外に位置します。駅からは歩いて迎える距離。柳川城から見ると、ちょうど鬼門の方角にあたるようです。入り口付近に架かる橋のすぐ横には柳川観光の要とも言える「どんこ舟」の船着き場があり、まだ出発前の舟が窮屈そうに舳先を並べています。軽くヴェネチアなのでは? いや冗談ではなく。冬場にはこの舟に炬燵を載せて、お客さんたちはそこで暖を取りながら水辺を進むのだとか。

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白秋先生の歌碑は町の至るところに点在しており、下の歌碑は三柱神社の入り口に置かれています。ここに綴られている詩は、元々詩人・北原白秋がふるさとの筑後柳川を歌い、愛弟子の田中善徳が写真を撮った『水郷柳河写真集「水の構図」』のはしがきに寄せられていたもの。初版は昭和18年(1943)。写真と文章の融合は、当時かなりのセンセーショナルなものだったようです。

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水郷柳河こそは、わが生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図、この地相にして、はじめて我が体は生じ、わが風は成った。
北原白秋

水郷柳河』というタイトルでも、白秋先生はふるさとの事を綴っています。詳細は省きますが、柳川市が現在のような水郷と呼ばれるようになり、観光できるようになるまでは様々な紆余曲折があったようです。白秋先生が生きた自体はおそらくですが現在と大きく形が異なり、「柳川は廃市である」と綴った文面からは違う景色が浮かんでくるようです。白秋先生の目にしていた町の姿の片鱗は、今でもその息吹をあちこちに残しているのでしょう。

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「西国一の強者」と称された百戦錬磨の武将 初代柳川藩主・立花宗茂公、岳父・戸次道雪公、宗茂室・誾千代姫の三神を祀ったことから、三柱神社と称します。天明3年(1783)、七代藩主 立花鑑通公が柳川城内三の丸 長久寺境内に社を建立し、道雪公を奉祀したのを起源とし、文政3年(1820)坂本村日吉神社近くに遷座され、唯一宮と称し、のち梅岳社に合祀し、三柱宮と改称しました。
(公式ホームページより)

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ちなみに立花家は明治維新後も続いており、現在もこの柳川の地にはご子孫とその一族の方々が生活をされています。先日NHKでも柳川の町並みが紹介されていました。かつて宗茂公がそうであったように、立花家は今でも地域と手を携え生きていらっしゃるようです。
立花家、特に宗茂公や岳父である戸次道雪公(立花道雪と言えば聞いたことがある方もいらっしゃるやも?)、宗茂公の正室である誾千代姫のことを話し出すと、もうすごくすごく長いので概要は手っ取り早くWikipediaをオススメしますが、それでもそれぞれがえらく長いので、立花家についてご存じない方は宗茂公のことを「九州戦国大名の中でも1、2を争う大人気武将である」ということだけ覚えておいてください(ファンの贔屓目を含んだお願い)

広い境内は朝の早い時間帯のせいか、私と友人以外はおらず静寂に包まれていました。あまり見ないタイプの手水場で手を清め、参拝をしてからぐるりと境内を散策します。

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こちらは水郷の名にふさわしい設備。「汲水場(くみず)」と呼ばれる独自の水汲み場が残っています。こうした設備は今でも家々の裏を縦横に走る小さな水路際に残っており、人々に飲料水や洗い場を提供してきたそうです。

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下写真のお守りは三柱神社でいただいたお守り。三柱神社では立花家に因んだキーワードを元に、様々なご利益を込めた可愛らしいお守りを授けてくださいます。私はとかく、旅行が多いものですから身代わり守りを購入。こちらは道雪公の由来である「雷を刀で斬り、身を守ったとされる伝説にあやかり災いを打ち払い、御守が凶事をご自身に代わって受けてくださいますよう祈念しております。」とのこと。

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この他にも、三柱神社では宗茂公の兜や軍配をモチーフにしたものや、数多くの可愛らしい色使いとデザインの御守を授与してくださいます。このあたりの色使いは、柳川の「さげもん」に通じる愛らしさがあるような気がします。

お参りの後は乗ってみたかった例の「どんこ舟」に乗船します。朝一番だったせいか、受付の方に気を遣わせてしまって申し訳ない。
こちらは乗り場のすぐ近くにある白秋先生の『立秋』より一部抜粋の歌碑。

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柳川のたつたひとつの公園に
秋が来た。
古い懐月楼の三階へ
きりきりと繰り上ぐる氷水の硝子杯(コツプ)、
薄茶に、雪に、しらたま、
紅い雪洞(ぼんぼり)も消えさうに。

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乗り場にもかわいい「さげもん」が。本当にどこに行っても飾られています。今年は例年行われているお祭りの類がすべて中止となってしまい、ひな祭りのお祝いもこうして軒先へ「さげもん」を飾るのみだったそうです。

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私が行った時は日差しと気温、ともに丁度いい気候だったので借りなかったんですが、こちらは百円で貸してもらえる「ばっちょ」。編笠ですね。夏場はこれを被っていかないと、水面に反射する日差しが強く、熱で大変暑いそうです。かわいい。ばっちょ。方言かな?

乗り場の風景。早速川下りへ出発です!

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白秋先生は、故郷・柳川の町を「さながら水に浮いた灰色の棺である。」と詠いました。

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柳川の町を縦横無尽に走る水路は「掘割」と呼ばれており、この掘割が最初に造られたのは弥生時代にまで遡るそうです。もともと干拓地で真水が手に入りにくい土地だった柳川では、人々が手作業で掘を造り、そこに雨水を貯めることで農業用水、防火用水、生活用水などといった用途に転用していました。戦国時代に入ると柳川城の築城に伴い、防衛を目的とした堀割が更に複雑に張り巡らされます。その時の掘割は、ほぼ原型のまま残されているそうです。

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立派な柳の木! 柳は柳川市の木。平成18年に決まったそうです。ちなみに花は「花菖蒲」と「藤」だそうです。
奥に見える白い建物は、この時閉館してて(感染病のせいで…)行けなかった「柳川古文書館」。く、くそ……!!!悔しすぎて歯噛みする……。次こそは絶対行くわよ…………!!

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どんこ舟のコースはいくつかあるのですが(会社によっても違うらしい)私がこの日乗った舟は掘割内にある古い水門や橋の下をいくつもくぐるコース。こちらの写真は「柳川城堀水門」を示す立て札。

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この水門は3ヶ所ある二ツ川から柳川城内への取水口のひとつで、城の防御用に築造された重厚な石積みの水門です。水は北を流れる川から取水して、ここより外堀、中堀、内堀に水を引き入れています。「水の城」といわれた柳川城の要となる水門であり、また、この水門が城内に入る唯一の道で、有事の際はここを閉め、川の上流の堤防を切り崩して水を流すと、城内、柳河(城下の町場)、宮永(城の南)を残して周辺は水びたしとなり、島のような状態になるのだそうです。柳川は元々低湿地帯ですから、周囲に残る湿地により敵軍は足を取られ行軍が困難となり、張りめぐらされた掘割は落ちると溺死する危険性があります。えげつない防衛手段です。

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この狭い水門を通り抜けて進んでいきました。舟からもその狭さがわかります。思わず頭をひょいと下げてしまうほど……この先も、あちこちに架かる橋の下をくぐる時は、頭上に注意して進んでいきます。

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旧柳川城の城濠をたどっていく「川下り」は、今では四季を通じて水郷柳川を代表する観光として親しまれていますが、このような「川下り」が始まったのはそんなに古い話ではありません。
もちろん、船を使って掘割を行き来することは古くからあったようです。例えば、江戸時代の法令には、「お囲いの土居」内(「お囲いの土居」とは柳川城の外堀を意味します)に「水門・船小屋などを新しく作ることはすべて禁止する」と書かれています。禁止される程に「船小屋」があったのでしょうか。また藩主が「御花畠」(今の「御花」)に渡る時は船を使ったとも言われています。これらから、恐らく城堀内の船の通行は出来たのでしょう。しかし、この時代の城堀は城の防御の要であり、誰でもが自由に船で往来出来たのではなく、許可された人だけであったと考えられます。
(柳川市公式ホームページより)

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初春の風景が美しい水路です。いろんな種類の花が水際に向かって伸びており、このあたりの景観維持は水路に面したお家の方々(もちろん一般の方)が気遣って丁寧に手入れをされているんだそうです。すごいことだ……。町全体が柳川の水路を守ってるんですね。

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白秋先生の歌碑もまだまだ見ることができます。こんな風に水路の中に現れることもしばしば。こちらの歌碑には、以下の柳川を示す情緒ある歌が書かれています。

ついかがむ 乙の女童影揺れて まだ寝起きらし 朝の汲水場
北原白秋

白秋先生の時代では、まさに生活用水として「朝の汲水場」から水を運んで使っていたのでしょう。お母さんに言われた幼い少女が、水路から桶に水を汲み上げてる様子が目に浮かびます。

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途中、水上売店もありました。夏場はアイスやビールなんかがよく売れるそうな。この日はちょっと肌寒かったので購入しなかったんですが、こうしたのも独特の雰囲気があって面白いです。

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こちらは田中吉政公の像。

柳川は、豊臣秀吉に「東に本多忠勝があれば、西には立花宗茂がある」とまで言われたほどの武勇名高い戦国大名、立花宗茂が治めた城下町として有名ですが、町割りに重要な役割を果たしたのは、この田中吉政という人物。城下町全体に掘割が張りめぐらせ、町の礎を造ったのは人物なのです。
時は戦国時代末期の天正15年(1587)、立花宗茂が柳川を豊臣秀吉から拝領し、領主となりました。それまであった柳川城の改修に着手しますが、まもなく朝鮮出兵となってしまいます。(どうやら朝鮮から城の改修について指示を送っていたらしいですが、どの程度改修が進んだのかを示す史料は見つかっていないそうな……もし出てきたらすごい発見になりますね。)
更に時が経って慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで立花宗茂は西軍に味方したため、敗戦後に改易(お家がなくなること)となってしまいます。そこで、立花宗茂の代わりに田中吉政が柳川城に入ることとなり、以降本格的な城の改修と町造りが開始されたというわけです。
そして約二十年後、再び立花宗茂が柳川領主として柳川復帰するまでは、この田中家が柳川の地をよく治めていました。柳川の歴史に欠かせない人物ですね。

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こちらは白秋先生の有名な童謡、「待ちぼうけ」の像。この歌碑は川下りをしないと正面を見れないらしいのでなんだか嬉しい気分です。

待ちぼうけ 待ちぼうけ
ある日せっせと 野良かせぎ
そこへ兎が飛んで出て
ころり ころげた 木のねっこ
北原白秋

川下りは片道コースで終了。降りる先は「御花」と呼ばれる柳川一番の観光スポットの前です。続きは、次の記事にて。

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