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「南極探検記念碑」(白瀬探検隊出発地)

無謀だった白瀬の探検。晩年は不遇に

★ジャンル【社会】
★場所 港区海岸3−14
★最寄駅 ゆりかもめ芝浦ふ頭駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「明治四十三年十一月二十八日南極探検隊長陸軍輜重兵中尉白瀬矗以下一行二十七名は二百四噸ノ小帆舩開南丸(元帥東卿平八郎命名)ニ搭乗シ舩長野村直吉是ヲ指揮シ當時ハ楢蒼海ナリシ此地黙ヲ抜錨シ一路南進ノ航程ヲ起シタリ狂瀾怒涛ヲ冒シ櫛風沐雨航走七十餘日後ノ翌明治四十四年二月八日ニュージーランド、ウエリントン港ニ到着シ休息三日二月十一日紀元節ノ佳晨ヲトシテ南氷洋ニ向ヒ難航更ニ五十日三月十四日南緯七十四度十六分ニ到達シタリシモ既ニ南極圏内ハ結氷ノ時期ニ入リ前進不可能ナルヲ以テ一度背進スルノ止ムナキニ至リ五月一日濠洲シドニーニ回航シテ用舩ヲ修復シ再舉ノ準備ヲ整へ十一月十九日シドニー港ヲ解纜シテ第二次探検ノ途ニ上ル。明治四十五年一月十六日南極大陸鯨湾頭ニ上陸シ白瀬隊長以下五名ノ突進隊ハ直南ノ氷野ヲ橇行シテ二十八日南緯八十度五分西経百五十六度三十七分ノ地點ニ到達シ同地點ヲ「大和雪原」ト命名シ日章旗を樹立シ学術的観測を終ヘテ同年二月四日根拠地鯨湾頭に歸還セリ 。又沿岸支隊ハ残餘ノ隊員ヲ以テ組織シ更ニ東航シテ同月二十三日エドワード7世洲ニ到達シ前人未到ノ地域ニ上陸シ海陸ノ探検ニ従事シタリ一行ハ此間「開南港」「大隈湾」「四人氷河」「したわし山」等日本男児ニ於テ最初ノ足跡ヲ南極地域ニ記録シ動物鉱物等ノ採集ヲナシ極地ニ於ケル航海天文気象博物等ノ各学術上幾多ノ貢献ヲ遂ゲ六月二十日此地點ニ歸航シ祖國ヲ仰グ。按ズルニ往年欧米探検隊ノ列ニ入リテ日本男児ノ意気ヲ発揚シタル我南極探検隊ノ事蹟ハ最近米国南極探検家バード少将ニ依テ其足跡ヲ再確認サルヽアリ又近来本邦捕鯨舩ハ続々南氷洋ニ進出シ好成績ヲ示シツヽアリ往年ノ献身的努力ガ徒爾ナラザリシ證在タルヲ信ズ今茲二十五周年ノ出発記念日ヲ迎フルニ際シ此碑ヲ建立シ一ハ以テ壮烈勇敢ナル快挙ヲ後世ニ傳ヘ一ハ以テ後進青春ノ徒ニ探検思想鼓吹ノ指針タラシメント欲ス」

★解説
 南極観測発祥の地、という言い方で紹介している場合もありますが、まあ「出発地」が普通の言い方でしょうか。田町駅東口の通りをずっと進んで行き、海岸通りで左折した右側の港区立埠頭公園内にあります。「日本初のプロ野球チーム発祥の地」もこの公園内にあります。まさにこの場所がかつては埠頭で、解説文中にある「この地点」、南極探検の開南丸の出発地、帰還地でした。
 日本での南極「探険」はこの記念碑説明文でも出ている白瀬矗(しらせ のぶ)中尉が先駆けとして有名ですが、そのいきさつを見ると、無謀に近い計画であり、支援態勢もずさん。国の支援も全くなし、といういかにも日本的で残念なエピソード満載です。
 白瀬中尉は秋田県のお寺の出身で(にかほ市に白瀬南極探検隊記念館があります)僧になるはずでしたが、幼少の頃から極地探検を志し、東京に出て軍人になります。その後北極探検を児玉源太郎(こだま げんたろう)などに訴えますが、無謀と言われ「まず千島探険から始めてはどうか」と諭され、郡司成忠(ぐんじ しげただ)の千島探険隊に加わります。しかしこの探険は数十人の死者を出し、特に千島に越冬した隊員は白瀬以外は1人が生き残っただけという悲惨なものになりました。
 しかし極地への情熱は絶えず、50歳になろうかという1910年(明治43年)になって、イギリスのロバート・スコットが南極点を目指すことを知ると競

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