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渋沢倉庫になっている弥太郎の本拠地---23区渋沢栄一ゆかりの地

NHK大河ドラマ「青天を衝け」は明治編に入り、主人公渋沢栄一の活躍の舞台も江戸改め東京に移ってきました。東京といえば23区内は私のホームグラウンド。毎回のお話と関わる場所を紹介します。

第36回「栄一と千代」

 今回の青天を衝け、涙された方も多いのではないでしょうか? 幼馴染で若い頃に苦労をかけ、血洗島の家や娘を守ってきた千代がコレラで亡くなりました。当時は幕府の瓦解で玉川上水の管理がおろそかになり、東京の水道の衛生状態がどんどん悪くなっている時期でした。また開国以来海外から伝染病が続々と入ってきて、コレラも流行のたびに時には何万人もの人が亡くなりました。
 コレラ菌が発見されたのが千代の亡くなった前年の1884年で、当時は治療法もほとんどありませんでした。すでに大富豪となっていた渋沢栄一でも、どうすることもできません。東京でコレラやペスト、チフスが下火になるのは、近代的上水道が完成する明治の終わり以降です。その後、都市の伝染病問題は結核に課題が移っていきます。
 そしてドラマ終了後、ゆかりの地案内で上野の寛永寺にある渋沢家霊堂が紹介されましたね。

寛永寺渋沢家霊堂
台東区上野桜木1-14-11

最寄り駅:JR鶯谷駅

 千代の17回忌に栄一が建てたとか。現在は国の登録有形文化財になっていますが、ここは私も見たことがありません。普通の人が入れない寛永寺の中にあるからです。んーー、残念。しかし面白いのは、この渋沢家霊堂と中庭を隔てて徳川慶喜が謹慎した葵の間があることです。
 葵の間は元々は離れたところにあり、近年移築されさらに慶喜謹慎当時からは少し小さくなっています(写真は葵の間、右の人物は黒田)。栄一は終生慶喜を尊敬し、その名誉回復や伝記の作成に力を入れました。慶喜が亡くなった際の葬儀委員長は栄一が務めました。

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地 図

 慶喜は神式で谷中霊園に葬られていますので寛永寺が菩提寺というわけではないのですが、寛永寺はやはりゆかりが深い寺。千代の墓(写真)が紹介されていましたが、渋沢家の墓も、慶喜の墓にほど近い谷中霊園内にあります。

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 墓碑を見てください。「尾高氏の墓」とありますね。日本の「伝統」に則って、夫婦は別姓なのです。1876年(明治9年)の太政官指令では「妻は実家の氏を名乗ること」となっており、現在のような夫婦同姓が強制されるのは1898年(明治31年)になってからです。しかし同じ墓域に1934年に亡くなった後添えの兼子の墓もありますが、しっかり「伊藤氏の墓」と書かれています。渋沢家は日本の「伝統」をきちんと守っているわけです。さすが「論語と算盤」の家です。夫人の墓と栄一の墓の墓石の大きさがまったく同じなのも注目です。これも女子教育に力を入れた栄一ならではでしょうか。

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 さてドラマ冒頭、岩崎弥太郎が「風船のように潰しちゃる!」と栄一らの商船会社に敵意を燃やしていましたが、この弥太郎の会社はどこなんでしょうねえ?

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