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「大銀杏由来の碑」(府立第三高等女学校[駒場高校]発祥の地)

名門女子校だった都立駒場高校

★ジャンル【学校】
★場所 港区六本木6−8−16
★最寄駅 都営、東京メトロ六本木駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「この地は明治三十五年(一九〇二年)開校された東京府立第三高等女学校発祥の地である。太平洋戦争末期の昭和二十年(一九四五年)五月米軍機による東京大空襲により全校舎が焼失するまでの四十三年間、向学心に燃えた多くの乙女たちが学んだ由緒ある女学校の跡地でもある。この大銀杏は、同女学校第六回卒業生が、明治四十三年(一九一〇年)に記念植樹したもので、先の大空襲の時猛火を浴びて枯死寸前にまで至ったが見事に蘇生し、今日樹齢百年を数えようとしている。戦後、学制改革により第三高等女学校が都立駒場高等学校として駒場に移転した。昭和二十二年(一九四七年)港区立城南中学校が創設され昭和二十四年(一九四九年)五月建築中であった新校舎一期工事完成と共に此の地に移った。本年、開校四十周年を迎えるに当り、記念として大銀杏の由来を此処に記す」

★解説
 現在の六本木中学校正門を入って校舎入り口左側にあります。インターホンを鳴らせば、見せてくれます。
 明治末に相次いで開校した高等女学校の中で、「「浅草の第一(現・白鴎高校)、小石川の第二(現・竹早)、麻布の第三(現・駒場)」と言われる名門校でした。映画評論家の故・小森和子(こもり かずこ)さんや料理研究家の故・岸朝子(きし あさこ)さんなどが出身者です。また初代校長の小林盈(こばやし みつる)は1929年まで、なんと30年近く務めました。戦前はこのように長く勤める校長が結構いました。今では考えられないですね。
 体力をつけるために体育を重視し、そのため「足が大きくなる学校」という評判が立ちました。女子教育に「おしとやかさ」を求める戦前の雰囲気が分かります。
 敷地は江戸時代は小倉新田藩小笠原家の上屋敷だったようです。
 碑文にあるように空襲で校舎が全焼したため、戦前は軍用地だった現駒場高校の敷地に移転し、1950年(昭和25年)に駒場高校と改名し、共学化しました。
 跡地には碑文にあるように港区立城南中学校が移転してきますが、1998年に三河台中学校と合併し六本木中学校となります。
 高女の敷地には、近くにあった香淳皇后実家の久邇宮邸に造られた花嫁修

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