「肩書き」があるがゆえの「しんどさ」や「孤独」感

これは、大人だけでなく子供も同じだと思います。

わたしたちは「肩書き」というものに
ものすごく強く「縛り」を受けます。

兄弟がいる人は「お兄ちゃん・お姉ちゃん」「弟・妹」
という役割が、早ければ2歳くらいから「大人から与えられる」という経験をします。

もっと言うと、
男か女か。この世に生まれる前から
「性的な役割」としての分類は、あり。
母親のお腹の中で、「◯◯ちゃん、◯◯君」と
母親の意識、細胞レベルで「役」を引き受けたり、感じていたりするのです。

凄くないですか?

物心つく前から「役割」は与えられていて。
その「役」を無意識レベルで、わたしたちはこなしています。

もう、みんな、
一人も漏れずに「お疲れさま!!」です。

どうですか?
大人になった今でも、その無意識レベルの「役割」で
窮屈な思いをしている人、意外に多いんじゃないでしょうか。

兄弟の役割もそうですが。
未就学児から、今度は学校にあがると
「飼育係、生活係、掃除係」とか「会長、書記」とか。

毎日、毎週、毎年、
一気に、人によってはいくつもの役割を担うことになります。

「何年生」ということも「役割」のようなもので
その年齢に応じたそれなりの「ふるまい、言動」を
特に日本の学校では、周りから求められがちです。
日本特有の「同調圧力」って、ものすごく働きますよね。

誰しもが、生きていれば
1つだけじゃなく
いくつもの「役割」を、背負いがちです。

「肩書き」

は、その役になる時間や期間が長ければ長いほど、
当たり前ですが「浸透」していきます。
その「役」を降りたり、外したりすることって
だんだん難しくなってきたりします。

自分だけじゃなく、もう
周りからも「当たり前のように求められる」ことになるから。
その「役としての言動」を。

それが、「社会的」なことだし。
一度その「イメージ」がつくと、その「イメージどおりの自分」を
演じていなければ「おかしい」とか。
もう気づいたらデフォルトで、その「役」と同化しちゃっています。
正しいのは「その役をしている自分」である、と。

これが、どういう状態かというと

肩書きに浸食される。

わたしは、こう思います。

「役」と「自分」を、完全に同化させしまい
自動操縦になってしまうこと。
色んな役割がありすぎて、当たり前に「浸食」されていませんか?

その中でも

「お母さん」

という役割は、
最も「降りることが難しい」肩書きの一つだと思います。
一度なってしまうと、なかなか難しい。

「お母さん」を降りるためには
どうすればいいのか?

「お金」


です。

実際、降りている人たちの多くは
子育て中の女性自身が「経営者」になり、
経済的な余裕を手にいれることで、ようやく
自分の時間を手にいれ
、「お母さん」という肩書きを外した時間を過ごすことができる。自分の代わりを、「お金をつかって他人に任せる」
ということが叶います。

経済的に豊かな人の、ある意味「特権」のようにもなる。
「お母さん」という肩書きを
なんの罪悪感もなしに「降りられる」人は
そういう方が、多いんじゃないかと思います。

お金の有無は別として

自宅でこどもと過ごしている時間に
「お母さんを降りる」となると、どうなるか?

これはこれで、
シンプルに、なかなか難しいことで。

お母さんが「お母さんを降りる」イコール
こどもと「同じ『こども』」になってしまうと、
それはいわゆる「機能不全家族(親子)」のできあがりで。

そうなると、もう「お母さんではない=親でもない」ので
パワーバランスのおかしさを生み出すことになります。

こどもと一緒に居ながら「お母さん」という肩書きを降ろすには
ものすごく「精神的な自立」が求められるわけで。
普通に、難しいのです。そもそも。

なので「肩書き」というものがあることで
あるレベルで「守られるもの」(プラスに働くこと)もあり。
一概に「肩書きをやめる」というのは、100%良いわけではありません。

ですが。

「お母さん」という肩書きがあることで
どうしても、「マイナスに働いてしまう」と。
そう自覚している人、強く感じる人にとっては、
一旦「その肩書きを降ろす」という考えや選択肢が
あってもいいと、わたしは思っています。


ではなぜ、
お母さんという「その肩書き」が
自分にとってマイナスな影響が強いのか?

そこで、
自分自身と向き合う必要性が出てきます。

わたしたちは
「肩書き」に飲み込まれるとき
色んな「選択の過ち」を犯しやすくなります

簡単に、飲み込まれてしまう。

だからこそ、
あくまでも「役」と「自分自身」と分ける必要があり

その「役」について、
そして「自分自身」について
よく感じて、自分で「理解していく」ということが

どんな「役」を担っていくにしろ
ものすごく重要になってくると思います。

わたしは「お母さん」という肩書きを捨てました。

これは、
もう、わたしはどんなお母さんよりも負けない自信があるくらい
「絶対に、捨てられない(捨てたくない)」肩書きでした。

ずっと「しがみついていた」肩書きであり、
わたしにとっては、ものすごく「重要な肩書き」だったんです。

でも、
だからこそ、手を話したんです。
その肩書きから「降りる」に至りました。

もちろん、そこに至るまでは長い時間かかっています。
自分の中で、その「お母さん」の「役」として
あるレベルで「達成した、完了した」のが分かったことと
そういう現実であることを「他者の存在」から教えてもらえたこと。

そういう「準備ができた」ことで叶ったこと。

「役」と「自分自身」を
しっかりと理解するプロセスに沢山時間と労力を割いた
からこそ
落ち着いた「結果」でもあると思いますが。

そのプロセスの中でも
とても大事だったな、と思うのが

● 自分の「できること」と「できないこと」がわかること
● 自分が「やりたいこと」と「やりたくないこと」を深く感じること

この2つって、変わるんですよ。大きく。

「お母さん」

という肩書きを持つようになったら
それらを「ガラリ」と変えざるを得なくなる。

女性にとっては「大きな転換期」になります。
それは、性質的にも現実的にも
男性のそれとは比べものにならないです。

かといって、男性に手放しで「だから理解してよ!!」と
一方的に自分の「権利を主張する」のは
それはそれで、軋轢を生むのでよろしくないのですが。

現実問題、「大きく変わるもの」です。

だから、
絶対的に「棚卸しする時間」が必要で。
多くの女性にとって「必要不可欠な時間」だと、わたしは思います。

どうですか?
ちゃんと、その時間、とれていますか?
とってきましたか?

今からでも
今日からでも、始められます。

感じている人から
始めていきましょう。



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