正論は、あっても主張してもいいけど。人にふりかざさない。

わたしが自覚していなかったことの一つに
この「正論」があります。

わたしの場合、大人になってから
「正論」を大きくふりかざしていた相手は、
主に「親」でしたが。

振り返ると、
小学生の頃から「正義感の強い人間」でした。

真面目で正義感が強いタイプだったので
いつも「生徒会」的な役割を任されているような学生でした。
自分からは手をあげないけど、推薦されたら引き受ける。
そんな「受け身」というか、
「誰もやりたくないなら、わたしがやりますよ」という感じの生徒でした。

そういう、「役」もあってですが、
ふざけて「やることやらない生徒」には注意することもあり。
同級生男児から「おせっかいばばあ」みたいな
あだ名をつけられたと思います。

悲しかったわけではありませんが、
わたしは「正しさ」を主張することには臆する気持ちはなく。
むしろ「正しさ」を自分の中に持っていることに
誇りのような。なにか「安心するもの」を感じていた
と思います。

それも、今思うと
家庭環境の影響が大きかったです。

家族の中で「正しさって、なに!?」と
心の中で強く叫びたいことが、沢山あったから。

「正しさ」というものに、わたしはとても敏感でした。

けれど、
その「正しさ」というものは
ほんの数年前まで、わたしにとっては「譲れないもの」のように。
ものすごく頑ななものだったと思います。

今は、ずいぶん「許容範囲」が増えました。

そして、親と散々ぶつかることを経験してきて。
わたしは、「自分の正しさ」と「相手(他人)にとっての正しさ」が
どうやったて「交わらないこと」も、ある
んだなと。

そういうことを痛感しました。

わたしの元々の発達特性が影響しているところも
多分にあると思いますが。

脳機能、どうこう。ではなく
人生経験の中で。
人との深い関わりのなかで得てきた「納得感」というか。

ありきたりではありますが、
わたしが「人間的に成長できた」ことの
大きな産物の一つだと思います。

自分の中に、「正しさ」というものはは
確かに、ある。持っている。

だけど、

それは、主張することはあれど
他人に「押し付けるもの」ではない
、ということ。

言葉にしてみると当たり前のようにみえますが。
実際に「できているかどうか」ということは
意外と難しく。

まだ、ここ数年で腑に落ちることができた
わたしにとっては、いまだに
意識して関わるようなもの。

「正しさ」

安心でもあり
凶器になり得るもの。



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