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料理人にこそ「外食」が必要な理由 〜虚学・理学の料理、実学・工学の料理〜

 体を壊して以来主婦兼病人な生活をしている。

 そのため料理と洗濯、そして一部の掃除を担当しているのだが特に私の得意分野は料理である。
 簡単な手順でパッパッパとどんどん作るし、未知の味にも貪欲、しかし夫も私も好む味を作れるので夫ははっきりと「外食より家でのご飯が好き」と言う。
 自分も我ながらよくこれだけ作れるなぁと思うこともある。元気だったら居酒屋くらいならつとめられたかもなぁと思うことも。

 しかし私は「外食がしたい」のだ。

 確かに支払う金額に比べ「味」が自分の料理とそう違う、ということはほとんどない。

 ただ金額が違いすぎる場合、例えば1万の料理と1000円の料理ならばそれはある。でも自分の料理と大きな違いがあるかといえばそうでもない。

 しかも外食において3000円の料理と2000円の料理ではそう無いこともある。土地代や手に入れやすい材料か否かなどでこの辺の差額はふっとんでしまうからだ。

 しかも料理とは個人差がある上にその店の得意不得意がある。
 そのため「これは美味しいがこれはあまり美味しいとは思えない」という半分賭け事みたいなことも起こる。

 そうなると夫は「あなたは家で美味しいものが作れるのにわざわざお金をかけて、しかも半分賭け事みたいになるのになんで外に食べに行きたがるのか?」という疑問があった。

 実際自分も夫と同じような疑問符がずっと自分の中にあった。

 後片付けが嫌だからか?
 いや、休日の後片付けは全て夫がやる。それは遠因だが原因ではない。(でももし後片付けやってくれないならば休日は作らないと思います)

 食べたいものが食べれないから?
 そんなことは無い。お気に入りのスーパーの品揃えはとても良いし、手に入れづらい品ならば通販でもなんでもある。

 気を使うから?
 それに関しては全くない。ありがたいことに世界で一番話していて楽しいのが夫なのは家でも外でも変わらない。むしろ病気で聴覚過敏がひどくなった今、外食の方が気を使う。

 料理をしたくないから?
 そういう日もあるけど料理が嫌いならわざわざ朝から煮豚を仕込んだり、エビのビスク作ったり、パンやらピザ生地の準備もしたいと思わないと思う。料理自体は結構楽しい。

 そう考えていくとなおさら「なんで自分はわざわざリスクや不快になるかもしれないのに『外食』をしたいのか?」というのが疑問になる。

 何でなんだろうなぁ・・・と気になっていた時だった。

 珍しく夫が仕事で悩んでいた。夫は工学系の研究職をやっている。その悩みはまあ社会人ならばあるし、少しは言いたくなるだろうなぁというのも分かるのでうんうんと聞いていたときにひらめいてしまったのだ。

「そうか、料理という技術においてレストランは美味さという真理のためには無駄や有用性の低さを許容する『虚学・理学』的部分の多い分野。
 対して家庭料理は美味さという真理をただ追い詰めるより、無駄の削減や有用性の高さ、その上栄養学、医学などを求める『実学・工学』的分野の多い分野なのだ。」

 そう考えるとなぜ私がレストランで外食したいのかはっきり分かった。

「外食は美味の真理の探究をしにいきたい。
今までの自分の技術が悪いわけでは無いがもうちょっと専門的な『理学』的な料理を食べて情報を集めたい。

 そしてそれを家で自分なりに実学にして完璧な再現で無くてもその『工学』的手法を自宅でやってみたいのだ。」

 これが分かったときにとてもスッキリしたのである。
 そして外食の時、そう言った専門的な料理でなければ家で自分が作った方がいい、と思ってしまう気持ちにも納得がいったのであった。

 これを夫に言ったところ、夫もすごく納得をしていた。

 そもそも夫は料理スキルが全くない。というかやりたくないのだ。精神的なハードルが高い。
 色々原因があるのだが一つに基本的に料理の『理学的な基礎知識』が全くない上に興味が無いからだ。
 そしてそれなら「買ってきた方がマシ」という精神になってしまう。
 結局相談の結果、ご飯と味噌汁の作り方だけは教え、後は買ってきた総菜やおかずをどうバランス良く取るかという『栄養学』のが興味があったのでそれを身につける方で決着をつけた。

 そういうことを過去にしてきたのでこの説明で夫も「なぜわざわざリスクをしょって外食したがるのか」が「妻は料理の実務家だからこそリスクは覚悟でも理学的な知識を高めるために高い知識を持つ人の料理を食べて研究したいのだな」ということが理解できたようである。
 それによりお互い納得できたことはとても良い経験だった。

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 最近、「料理」に関心がある人が増えたのは喜ばしい限り。
 性差などなく「料理」は他者をおとしめたり傷つけたりせず、自分を喜ばす根源的な快楽を得る事が出来る最高の技術であり学問だと私は思っている。

 しかし反面「料理嫌い」「料理苦手」という人もいる。夫もその一人。

 そういう人の話を聞くと
「最初から難易度が高いとこ狙うなぁ~
 もやしにお湯かけてポン酢とかつぶしかければ一品できるし、肉が無きゃ嫌だ!とかほざきおったら脂肪肝で苦しめ!と罵ったっていい。
 罵りつつ、余りがちな鶏皮をお湯で煮てそれでもやしとかいわれに湯通ししてポン酢かければ居酒屋で300円くらいのおつまみになる。」
と思ってしまってた。

 しかしそもそも『虚学・理学』的な分野を一切学ばないでいきなり『実学・工学』的な仕事は出来ないのである。

 昔はそうは言っても店のやっている時間は短いし、野菜の持ちも悪かった。
 言い方は悪いが半分腐りかけた青菜をどうするか、水になりかけたもやしをどうするか、芽が出て根まで出てお互いを栄養分として相食み合うジャガイモをどう救助するかという「限界の立場」での最終手段で「料理という実学・工学」を身につける人もいた。(自分はそれ。母の実家が農家だったため規格外の傷みかけの野菜が多かった)
 そういう傭兵的な手法で身につけざる得なかったのが「料理という実学・工学」だった。

 しかし時代が変わりそういった最終手段の状態で料理を学ぶ人が減ったのは喜ばしい限り。
 だがその代わり「料理」の概念にこれらの『虚学・理学』と『実学・工学』が混ざってしまい、ある種の難易度をあげてしまったのは事実でもあろう。

 これらのことから「料理苦手だけど得意になりたい」と思う人は一度諦めてロスが多く出る『虚学・理学』的なレストランの簡単レシピみたいなものから試すと良いと思う。
 これを続けることで基礎的な知識が高まり、自然と応用力は付いてくる。

『虚学・理学』的なレシピの最高に素晴らしいところは「ロスは出る分、味としての完成度が高く、しかも基本的で学べば応用力が付きやすい」というところだからだ。

 またこういった部分をスピーディーに行える便利な食材としていわゆるクックドゥーなどの合わせ調味料がある。これは簡単に『虚学・理学』的な味をつけることが出来るので舌を鍛え、塩加減などの基本の能力の向上には最適解な学習教材だと思う。
 手抜きどころか能力向上の一手段として積極的に使うべきだと私は思う。そのための価格でもあるので。私も以前はいざという時用にいつも一つは準備していた。(今は調味料の使い方が上手くなったのでストックしなくなったが上手になった理由はクックドゥーさまのおかげもある。ありがたい商品です)

 しかしこういったレシピを改ざんするのは実力をつけてから。
 基礎能力が無い人のレシピ改ざんは失敗の元、最低数回はレシピ通りにすることで基本の味を身につけることは重要だと思う。

 ではそこで残った食材はどうするか。
 余らせてしまうと使いこなせない事もあるので一緒にスープにしてしまえばロスもでないので、そう言ったレシピ挑戦時はスープをメニューにしておくとだいぶストレスは緩和する。

 そしてネットなどで無料で見られるメニューは多くは『実学・工学』的なレシピであることは意識しなくてはいけないと思う。
 故に「だいぶ手慣れてきたけどもうちょっと変わったものを・・・」という段階で扱うべきかと思う。なにせネットは玉石混合、見極めるには最低限の知識と経験が必要なのだ。

 英語が読めないのにわざわざ英語のサイト(日本語のサイトもあるのにかかわらず!)で毎回調べものをする人は多くは無いだろう。
 料理は経験による特殊な言い回しが多いのだからこそ「読めば出来る」のは『虚学・理学』的な料理までだと思う。
『実学・工学』的なレシピでは基礎知識と最低限の経験を必要とする。それがないとウソや過ちが見抜けないのだ。

 2000年の『フラーレンを用いた高温超伝導研究』で世紀の大ねつ造を繰り広げたヤン・ヘドリック・シェーンのねつ造がなぜあそこまで発覚しなかったのかと言うのは「虚学・理学」的な研究だったというのが大きい。
 そして彼のねつ造をいち早く気が付いた人の多くは実学家であった「工学博士」たちが多かったというのを考えてみるとまた興味深い。

 料理のレシピはそれほど重要でも無いと思うかもしれないがこれは「虚学」のウソや暴走を見抜くには「実学」が必要であり、そして「実学」の停滞を突破できるものは「虚学」による真理の発見が必要という一種の典型例だと思う。

 そんなことを考え、今日も私は一人の「実学・工学家」として「虚学・理学家」の先人たちに敬意を払い「料理」という「実験」をし続ける。

 

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