見出し画像

【連載小説】無限夜行 五.「蛍の辻」

 列車は静かだった。あの賑やかな市場の喧騒は、夜という幕が下りると共に何事も無かったように消え去ってしまった。残されたのは半分以下に減った乗客と僕達三人。そして言いようも無い感情と肉体疲労だけだった。

 僕は一人、八号車の寝台で横になっていた。未知の環境に対する緊張と全力疾走の疲れが一気に放出され、頭痛に襲われてしまったのだった。横になったところで不安が無くなる事は無いのだが、頭の痛さは少し和らぐ。

 今、僕達三人はバラバラだ。兄は切符泥棒が見つかったらすぐ追えるようにと、例の三号車の座席に座っている。千夏はおそらくまだ先頭車両にいるのだろう。別にケンカなどをした訳では無いのだが、お互いそれぞれがきっと一人になりたいのだ。


 二段になっている寝台車両のベッドは、座席のクッション部分と同じ素材でできている。弾力はあるが、少し硬い。

 柔らかいベージュの毛布は、前に使っていたであろう誰かの匂いがほのかに残っていた。ベッドとベッドの間にある小さな机には空いたガラス瓶が放置されている。そういう所を見ると、この列車が誰にも管理されていないのだという事が頭によぎる。だがその割にはそれほど臭くもないし、ゴミで溢れかえっているわけでもない。定期的に誰か掃除する人がいるのかもしれない、と思った。

 二段ベッドの上段で寝ていると、迫り来る天井の圧迫感が妙に懐かしい感覚を呼び寄せる。僕は長い間、二段ベッドの上段で毎晩寝ていたのだ。下の段は兄のものだった。それが最近になって親戚の家に生まれた双子の為に譲られてしまい、代わりに新しい一人用ベッドが来た。おかげで部屋は広くなったが、天井との距離にいつまでも馴れず、なかなか眠れない日々が続いた。

 あれはいつの事だっただろう。たしか一年前の夏の終わりだった気がする。あれ以来、僕達兄弟の部屋はバラバラになった。僕を兄に依存させない為の母の戦略だったと思うが、結果的にはあまり変わらなかった。僕は眠れぬ夜に部屋を抜け出し、物置を改造した兄の部屋にこっそり遊びにいったものだ。

 意識がぼんやりとし、くすんだ灰色の天井が雲のように揺らぎ始める。列車の微振動が眠りの世界へ、夢の中の過去世界へと誘う。薄暗い灰色の空。淀んだ分厚い雲。それは過ぎ去った雨の匂いを残していて_________


 午後の太陽を隠す低い雲が、濡れた土と草の匂いを含んだ風と共に流れる。蛙と蝉が輪唱するかのように、耳元で暑苦しく騒いでいる。薄暗く湿った古い日本家屋の、憂鬱な夏の午後。

 僕は廊下に立っている。戸が開かれた仏間から線香の香りが漂い、蒸し暑さと伴って頭をくらくらとさせた。

「……なんか、……じゃない」

 廊下の奥の小部屋から声がする。

「そうやって……から、いつも……なんでしょ?」

「ねえ、そんなに勉強ばっかりして、楽しい?」

 聞きたくないのに、耳を閉ざすことが出来ない。半開きになった扉の向こうから暗く淀んだ気配が滲み出て僕を金縛りにする。

「……んだよ!」

 何かが床に叩きつけられて割れる音がした。

「さっきから聞いていれば……、……は僕の勝手だろ!?」

「だって……じゃないの!」

「お前なんかに何が分るんだよ! お前みたいな……はいつも……んだろ? 僕は違うんだ。お前らみたいな馬鹿の田舎者とは違うんだ」

 言い争う声がどんどん大きくなる。言葉の一つ一つが黒く鋭い針になり、扉を抜けて廊下を走り、僕に突き刺さる。蝉の鳴き声が煽るように勢いを増す。

「知ってるよ。お前まだ出来ないんだってな」

「はぁ? それとこれと何の関係があるの」

「……も出来ない奴に威張られたくないんだよ」

 悪意の針が体を抉っていく。

「そうだな、あの……岩から一人で飛び込めたら、お前の言うこと聞いてやっても、


_________忘れろ。忘れていいんだ。

_________大丈夫、心配しなくてもすぐ忘れられるさ 

 高い笛のような音と共に、耳元で囁く声がする。


_________我慢しろ。警笛が三回鳴るまでここで待つんだ


 暗い廊下はいつの間にか、列車の座席に変化する。臙脂色のクッションが視界を覆う。僕は座席に座って俯いている。

 正面の黒い影が僕の肩を支え、語りかける。低く優しく、力強い声。

「警笛が三回鳴り終わるまで待つんだ」

「三回鳴ったら夢は夢じゃなくなる。嫌なものは、全部消えるんだ」

 警笛が夜空に響き渡る。

「ほら、これで三回目だ。これで全部忘れられる。楽しいことだけ考えよう。俺と、楽しい話をたくさんしよう。な、悠太」

 悪いものを追い出して扉は閉まり、黒い列車は動き出す。

 そして僕は全てを忘れた。夜を駆ける風音と共に、嫌なことをすべて_________

─────────────────

 灰色の天井が目の前にあった。閉じられた深緑のカーテンがゆらめいている。毛布の掛かった下半身は汗をかいていた。僕は毛布を退け、寝返りをうって壁の方に体を向ける。肌が触れていなかった部分の白いシーツが冷やりと腕に触る。着ているボーダー柄のシャツが汗臭くべたついている。そういえば列車に乗ってから一度も着替えていない。

 僕は左耳をベッドに当てて列車の振動音を聞きながら、今抜け出した夢の世界の扉をもう一度開いてみる。

 いや、あれは夢というより鮮明な過去の記憶だ。僕は確かにあの座席で警笛を聞いていた。この黒い列車の座席で。目の前で励ましてくれた黒い影は、間違いなく兄だ。兄が僕に語りかけ、嫌なことを全部忘れさせてくれた。そして家に帰るまでずっと二人で楽しい話をし続けたのだ。

 家に帰るまで? ……そう、僕らは確か家に帰ったのだ。この黒い列車に乗って家まで帰る事が出来たはずなのだ。あの時確かに切符を持っていて、それを改札に通した。改札の外は無機質で騒がしい僕の住む街の中心になる駅で、そこに会社帰りのスーツ姿の父が迎えに来ていた。そのまま車でファミリーレストランに行き、カキ氷を食べさせてくれた。そう、あれは夏だ。今年と同じような、うだるように暑い去年の夏休み。

 あの夏、仕事が忙しかった父を除いた家族で祖父母の田舎へ里帰りした。梅雨の名残のように雨が連日降り、ほとんど外で遊べなかった記憶がある。そして、そのクライマックスであるかのように襲ってきた集中豪雨と雷鳴の夜。木造の壁は雨音を余す所無く響かせ、雷が一番近くに落ちた時はこのまま死ぬのかとすら思えた。

 それが過ぎ去った翌日の、けして爽やかとはいえない曇り空。薄暗く気だるい夏の午後。重い瘴気に包まれた廊下に飛び出してきたのは、間違いなくあの細い手足とポニーテール_________浅田千夏だ。


 _________あ、ゆ、悠くん、いたんだ

 彼女の頬と瞳は赤く充血していた。

 _________ちょっと私、出掛けてくるね

 そう言って僕の横をすり抜け、廊下を裸足で走り去る。そして……

 ああ。どうして思い出さなければいけないのだろう。

 あの時頑張って忘れたというのに。

 思い出したくない。

 僕は思い出したくない。


 気を紛らわす為、一旦起きてみることにした。汗をかいて喉が渇いたというのもある。リュックサックのペットボトルはとっくに飲みきったので、手洗い場の水道水を飲みに行った。水は思っていたよりも冷たく、喉に染み渡る。おかげで目も覚めた。

 三号車の荷台には僕と兄の荷物があったが、兄の姿はなかった。荷物を放置して大丈夫なのかと思ったが、今は人もまばらだから平気なのかもしれない。財布はずっと胸に提げているし、黄色い電車ももう無いのだから。

 誰も居ないということは千夏も戻っていないのだろうか。先ほどの様子だと少し心配だし、僕も色々思い出した事がある。

 僕は三号車を通過し、先頭車両まで千夏を探しに行くことにした。

─────────────────

 窓の外はずっと深い夜の闇が広がっていて、黒い山の稜線の上に満天の星空が広がっていた。それは祖父の家で見た星よりも更に美しく、様々な色彩を持つ星々が競い合うように輝いていた。その姿は、ここが宇宙に浮かぶ惑星の一つだということえお感じさせてくれる。

 良く見ると、下のほうに小川が流れていた。星の光を映し出した川は、ゆらめき輝きながら線路を沿うように流れている。民家などは無く、人の手が入っていない大自然そのものという風景だった。

 静まり返った車内を抜け、一号車の扉を抜けると列車の先頭部分の通路に出た。相変わらず薄暗い通路の先に、白いノースリーブシャツが儚く揺れていた。全てを思い出した少女は、一人暗闇に佇んでいた。

「あれは……のせいじゃないの」

 呟き声が微かに聞こえた。彼女は誰も居ない運転席の窓に向かって独り言を言っている。

「だって、知らなかったでしょ? あの時、……だった事。私は知ってた。ずっと住んでたんだから分ってたはずなのに」

 僕は通路の途中で立ち止まり、気付かれないように耳を澄まして声を聞く。まるで、あの廊下での記憶のように。

「あの日からずっと悠くんは……」

 大事な言葉が列車の走る音に掻き消される。もう少し近づけば聞こえるだろうか。足音を立てぬように摺り足で僕はじりじりと前進する。

「辛かったよね」

 千夏はそう言って窓ガラスにゆっくりと額を当てる。その姿は窓ガラスに映る彼女自身と対話しているように見えた。

 きっとこれは、自分自身に言い聞かせるための独白なのかもしれない。それを盗み聞きするのは後ろめたい気持ちもあったが、もはや後戻りもできなかった。

「ごめんね。全部私のせいだね」

 彼女の声は徐々に熱と湿り気を帯び始め、最後には完全に涙声になった。鼻をすする音が静寂の空間に響き渡る。

「本当にごめんね、啓介_________」

 その時、列車がカーブした為に大きく左へ引力がかかった。僕は思わず足がよろめいて転びそうになる。千夏は慌てて手元のバーを掴み、体を固定した。そしてこちらを振り返った。

「わ、悠くん! いたの? いつから!?」

 彼女の反応に既視感を覚える。赤くなった瞳も紅潮した頬もあの時と同じだった。そういえば服装も髪型もすべて同じではないだろうか。

「えっと、千夏ちゃん遅いからどうしたのかと思って」

「ああごめんごめん! 何かここにいると時間を忘れちゃうんだ。あ、もしかして一人言聞こえてた?」

 僕は慌てて首を振る。列車の音で聞き取れなかったのだと言い訳をした。まあ、嘘ではないだろう。

「そっか。別に聞いても良かったんだけどね……」

 彼女はそのまま黙り込む。僕もなんと言ったらいいのか分らず、黙ってしまった。沈黙の闇に列車の音だけが響く。

「僕ね、」

 僕にしては珍しく、自ら沈黙を破る。

「僕もね、思い出したんだ。一年前の夏のこと」

「一年前?」

「そうだよ」

「もう、一年経っちゃったんだ。道理で悠くんが少し大きく見えると思った」

 月明かりに照らされた彼女の潤んだ瞳は、儚くも美しい。

「千夏ちゃん、僕は確かに去年の夏この列車に乗ったよ」

 少女は黙ってこちらを見つめ、ゆっくり一回瞬きをする。

「丁度おじいちゃん家から帰る時にね。多分あの時はこの列車の正体に気付いていなかったんだと思う。切符も持っていたしね」

「そして、どこかの駅に停まった時に警笛を聞いた。三回。……そして、嫌なことを全部忘れてしまったんだ」

 そう言い切って僕は大きく息を吐き出す。一気に喋ったので息が苦しくなったのだ。千夏は何も言わず、優しい笑みを浮かべていた。

「千夏ちゃん」

「なあに?」

「僕は思い出すのが怖い」

「……私も怖かったよ」

 彼女は切符を握り締めた左手を強く握る。

「思い出さなくちゃ、駄目なのかな」

 僕らは目を合わせる。背後の山脈の隙間から大きな丸い月が顔を出し、僕達二人を照らし出した。列車はまるで、月に向かっているかのようだ。

「思い出して欲しい」

 逆光の少女が、はっきりとそう言った。

「嫌なことを忘れるのはいい事だと思う。私だっていつもそうやって元気を取り戻してきたよ。でもね、」

 少女は一拍置いて息を吐く。

「でもね、忘れちゃいけないこともあると思うんだ。知らんぷりするばかりじゃ駄目なこともあるよ」

「忘れちゃいけないこと……」

「悠くんはそれも一緒に忘れちゃったんだよ」

 忘れちゃいけないこと。

 忘れたかったこと。

 記憶の川へゆっくりと僕は潜る。ゆっくりと、ゆっくりと。水面には月明かりがキラキラと揺らめいている。

 深い青緑色に濁った川底は、不思議と温かかった。

 そして、しなやかな腕が僕を優しく抱きとめる。

 ああ、そうか。

 僕が彼女を呼んだのだ。

─────────────────

 月夜を行く黒い列車は眠るように静かに減速し、やがて動きを止めた。煌めく星空と悠々と聳え立つ山々に囲まれたその場所は、どこまでも澄み切っていて神秘的な空気に満ちていた。

 黒髪を揺らしながら、千夏は扉の前に立っている。僕はその隣にいた。振り向くといつの間にか後ろに何人か人が並んでいる。彼らは皆、誰かに気付かれないと姿が見えないのではないかと思えるくらい儚い存在に感じた。俯いている人もいれば、満ち足りた表情をしている人もいた。

 扉が開くと、香ばしい草の匂いを乗せた風が髪を撫でた。川の冷たさを含んだ風は、涼やかに山脈を吹き抜ける。

 そこは前降りた市場の駅以上に駅らしさの無い駅だった。駅名はもちろん、ホームの形すら成していない。線路際の土が少し盛り上がって降りやすくなっているだけだ。

 人々は落ち着いた足取りで列車を降り、いつまでも立ち止まっている僕らを追い越して前へ進む。そこは草を分けた道になっていて、道の先は十字路に分かれていた。人々は思い思いの方角へ分かれていく。どこに進んでも山と草原があるだけのようにしか見えなかった。

 降りる人もいなくなったあたりで、ようやく千夏は前へ歩き出す。風に揺れるポニーテールを僕はただ追った。

 足元には小川のせせらぎが聞こえる。土と草で覆われて分りにくいが、小さく低い橋の上に僕らは立っていた。山を伝う風が水面を撫でるようにそよいでいる。

 橋の下に、点滅する小さな光の粒があった。頼りなく小さいそれは、何かを探るように青い光を暗闇から発している。

「ホタル」

 僕は独り言のように呟いた。それを聞き入れたのか、遠くの岩陰からも小さな光が一つ灯る。

「悠くん、知ってる? 蛍はね、共鳴しているんだよ」

 橋の中央で立ち止まった千夏は足元の水面を見つめる。

「共鳴?」

「蛍たちは最初からみんな一斉に光り始めるわけじゃないの。誰かが光って、段々仲間を呼んでいくんだ。暗い夜の川では光ることでしかお互いの存在が確認できないでしょ?」

 彼女が言うように、光の粒は少しずつ確実に数を増やし始めている。僕らの目線くらいの高さに、流れ星のような光の筋が横切り、消える。

「それでね、集まったオスの蛍たちは少しずつ光の点滅を揃えていくんだよ。最初はバラバラだけど、少しずつ少しずつ。そしていつの間にかぴったり合うようになるの」

 彼女が生まれたときから住んでいる町の大きな川には、六月頃になるとたくさんの蛍が舞うらしい。僕は未だにそれを見たことが無かった。僕達家族が来る時期は、決まって蛍が過ぎ去った真夏だからだ。

 だから、千夏はよく夜の川を見ると蛍の話をしてくれた。蛍の時期に来ればいいのに、といつも言っていた。

「でもね、蛍って本当は光らなければもっと長生き出来るんだって」

 彼女は明滅する青緑の光に照らされた川の向こうを見つめながら呟く。

「それなのに、どうして光ろうとするんだろうね」

 僕は黙り込む。夜の小川はすっかり光に埋め尽くされた。点滅する光の足並みは、少しずつ同調し始めているように見える。

「こうやって仲間と光り合いたいから、かな」

 夜風になびく前髪を押さえながら、彼女は自らの問いに答えを出した。

 もし僕が蛍だったら、自らの命を削って光を放つのだろうか。そう考えてみたが、答えは出せなかった。

「私、あの切符屋さんに指摘されるまで、自分があの列車に乗っている本当の理由が分らなかった」

「え? でも確か転校した友達に……」

「あれは嘘。友達が転校したのは本当だけどね。でも別に悠くん達を騙したかったわけじゃないよ。なんでだろうね、あの時は本当にそう思い込んでいたの。切符も悠くん達みたいに盗まれたんだと信じて疑わなかった。ずっとポケットに入っていたのにね」

 千夏が持っていた切符。〝蛍の辻〟と書かれた切符。彼女はその存在を思い出すことが引き金となって、すべての記憶の扉を開くことが出来たのだろう。

 そして、その扉に鍵をかけていたのはきっと_________僕だ。僕が自分の都合の為に彼女を呼び、都合の悪い記憶に鍵をかけてしまった。彼女が、浅田千夏がそこに〝いる〟事によって、僕自身の記憶にも鍵をかけたのだ。

「僕が呼んだんだよね」

「うん、そうだよ。でも悠くんだけじゃない。私も、私自身もここに来たいって願った。悠くん達にもう一度会いたいってね。みんなが私に、ここに居て欲しいって願ってくれたから私は列車に乗ることが出来たんだよ。想いが共鳴したの。私と、悠くんと、お兄ちゃんと、……」

 夏草と共に、彼女の言の葉は夜風に流されていく。

 

やがて光り輝く夜空に、警笛が一回響いた。

「あ、もう行かなくちゃね」

「千夏ちゃん、」

「悠くん、呼んでくれて、ありがとう。会えて本当に良かった。短かったけど一緒に冒険できたし、こうやって蛍も見れたしね」

 千夏は澄んだ瞳に青い光を照らしながら、僕の目を正面からしっかり捉える。そして、夏の風のように爽やかに、笑った。

 お互いの存在を確かめ合うように同調しながら、光り舞う蛍たちは星空と一つになる。宇宙の中心に、僕らは居た。

 千夏は僕の斜め後ろを見つめ、大きく手を振って笑った。それは、僕らの願いを叶えてくれた黒い列車に礼を言っているように見えた。

「じゃあ、行くね」

 最後にもう一度こちらを向き直し、彼女は僕を見る。

「楽しかったよ。じゃあね」

 そう言って手を振り、ポニーテールを翻して颯爽と十字路へ歩き始めた。

「千夏ちゃん!」

 僕は叫ぶ。

 少女は僕に背を向けて迷い無く前を歩きながら、僕にもう一度手を振った。

─────────────────

夜風が熱くなった目尻を冷ましてゆく。僕は独り、誰も居なくなった橋の上に立ち続けていた。

 _________悠太君、うちの千夏を見ていないか?

 川音が、扉の向こうの記憶を運んでくる。

 _________大岩にサンダルがあったぞ! これは間違いなく……

 _________冗談じゃない! 昨日の大雨を見ただろう?

 開いてしまった扉はもう閉じることができない。冷たい風と共に記憶は吹き込んでくる。

 _________悠ちゃんはお兄ちゃんと先帰りんさい。お母さんは、まだ婆ちゃん達と残るそうだ。

 _________悠太、その話は本当なの? それじゃまるで、


 _________お前が千夏ちゃんを殺したんだ!!


 そして最後の扉の鍵は開き、僕を呼ぶ警笛の音が宇宙に木霊した。

──────────────────
続く

著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。

投げ銭、心と生活の糧になります。大歓迎です!!