啓介さん

【連載小説】無限夜行 七.「列車と少年」

(今回はサムネネタバレ回避のため、本文までスペースを空けます。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 深川啓介は孤独な少年だった。

 誰よりも真面目で成績も良かったが、友達は一人も居なかった。学校でも塾でも家でも、彼は常に独りだった。

 その原因のひとつは、彼の性格によるものだろう。啓介はとにかく一つのものに没頭しすぎる性分だった。機械の仕組みに興味を持った時は家中の時計を分解しては直す事を繰り返し、生命の仕組みに興味を持った時は日が暮れるまで理科室でカエルの解剖をし続けた。  

 何事も興味を持ってのめり込むのは悪いことでは無いのだが、彼のそのような行動は周囲の人間からは奇怪に捉えられた。学者肌だ、と一部の教師からは評価されていたが、それは小学生の狭く小さな価値観の中では必ずしも褒め言葉にはならない。実際彼は「ハカセ」「カエル君」などのあだ名をつけられ、クラスメイトに虐められた。

 虐めは彼が小学三年生の時に始まったものだったが、想像以上に長引き定着し、学年が上がるにつれて悪質なものに変化していった。小学校高学年になりクラス全体が受験という重圧によって神経質な状況になると、啓介への風当たりはより理不尽で暴力的なものとなった。それは他学年や彼の通う進学塾にまで侵食し、彼の居場所を失くしていった。

 だが啓介は、それに抗おうとする意志は常に持っていた。自分の言動や行動が気持ち悪いなどという理由で暴力を振るったり陰口を言う奴らをどうにかして見下してやりたいと常日頃考えていた。

 彼にとってのその手段は勉強であり受験であった。偏差値と言う数値化された世界の中で周囲と差をつけ、誰よりも優秀な中学に入学する事だけが彼の到達点だった。

 だから啓介は、勉強しかしなかった。流行りの遊びやテレビ、ゲームには目もくれず、ひたすら机に向かった。それはもともと狭かった彼の視野をさらに狭くし、数値でしか物の善し悪しを測れない頭にしてしまった。啓介の世界では、偏差値の高いか低いかですべての人間の価値が決まるようになった。

 そんな啓介にもひとつだけ、勉強以外にも没頭できる趣味があった。彼は小さい頃からずと、電車が大好きだった。見ることも乗ることも好きで、一日中山手線に乗って都心を回転し続けても飽きない程だった。路線図や時刻表をひたすら眺めては、どのように乗り継げば最速で東京から博多に行けるか等と計算して楽しんだ。時刻表を辿るだけで旅をしているような気分になれたのだ。

 それは、受験勉強に疲れた彼の小さな安らぎだった。勉強は彼の自己表現手段であると同時に、プレッシャーでもあったのだ。両親や教師は、啓介が受験に成功することを過度に期待していた。それしか取り柄が無いから、そこに望みを集中させるしか無かったのだ。

 それ故に、受験に落ちる事は彼の生きる意味を失う事と同意義だった。それに対する恐れや焦りは彼の精神を蝕み、重圧を与えた。

 時刻表片手に空想の鉄道旅行に出ることによって、彼は一時的にその闇から抜け出すことができたのだった。


_________啓介、そこ退けよ。邪魔だから

 そんな冷たい言葉でいつも啓介の唯一の楽しみを邪魔する存在があった。

 弟の悠太だ。

 悠太は全くと言っていい程啓介に似ていない。母に似た大きな瞳も柔らかい頬も、啓介には無い要素だった。

 悠太は要領のいい子供だ。どうすれば大人に気に入られるか、どうすれば自分だけ叱られないか、そういう事をすべて分かって行動する。啓介と同じくらい臆病で運動音痴な癖に、何故か上手に世渡りしていた。

 しかし、親類や近所の大人に愛されていた悠太も学校では近頃うまくいっていないようだった。啓介への虐めが悪化するに従い、弟にもその影響が及んだのだ。

 _________お前の兄貴、〇〇なんだってな

 そういう言葉や目線が悠太の心を閉ざし、歪ませていった。

 だから悠太は啓介が大嫌いだった。外ですれ違っても言葉を交わさず、家では何かと理由をつけては文句を言ったり親に告げ口をしたりした。最悪な兄のせいで自分はこんな目に遭っているのだ、とすべての原因を啓介に押し付けた。

 いつからか、悠太は啓介を兄と呼ばなくなった。二人の時も親の前でも、悠太は彼の事を名前で呼び捨てにした。それは啓介を自分の兄と認めない、認めたくないという強い意志表示だった。

 やがて日頃のストレスから空想に逃避する事が多くなった悠太は、脳内に理想の“兄”を生み出した。

 それはアニメやゲームのキャラクターのように、悠太の敵を脳内で倒してくれるらしい。啓介はそういったものに興味が無いのでうまく想像はできないが、弟の世界ではきっと自分は何度も滅茶苦茶に倒されているのだろう、という事だけは予想できた。弟の脳内だけは死んでも覗きたくないと思った。

 それでも、かろうじて同じ部屋で眠るのを我慢できるくらいの関係は保っていた。残念ながら彼らの部屋を分けられるほどマンションは広くなかったのだ。ケンカをした夜は別室で寝る事もあったが、両親の説得もありお互いなるべく同じ二段ベッドで眠るようにしていた。

 そんな細い蜘蛛の糸のような兄弟関係を完全に切り裂いたのは、一年前の夏の出来事だった。

─────────────────

 啓介の家族は、毎年夏休みになると母親の故郷である滋賀に行っていた。母親の実家は市街地から離れ山を少し登った小さな町にあり、付近を流れる川は子どもたちの遊び場になっていた。川は上流の方らしく、澄んでいて力強い流れだった。

 その年、啓介は田舎に行くのを嫌がった。両親や祖父母としては受験勉強の気分転換に自然の中で羽を伸ばして欲しかったようだが、その気遣いを彼は鬱陶しく感じていた。勉強に取り憑かれていた彼は、机に向かっていないと落ち着けなかったのだ。川遊びなど何の得にもならないし、彼には彼なりの逃避手段がある。結局説得に負けて渋々と付いて来たが、一歩も部屋から出ようとしなかった。

 そもそも田舎の子供が啓介は嫌いだった。のんびりして楽観的で、一緒にいるだけで脳みそが溶けてしまう気がした。川の飛び込みが出来るか否かで男の価値が決まるなどという幼稚な儀式は特に理解出来なかった。

 意外にも啓介は飛び込みを怖がらない子供だった。二年前の夏、あまりにも周囲の少年たちがうるさいので、ヤケになって一回だけ吊り橋から飛び込んだ事があったのだ。一番高い場所では無かったがそこそこの高さだった。なんて下らないんだろう、と冷たい川に潜りながら彼は思った。受験から落ちる方がよっぽど怖いし、普段の学校生活の方がより危険で常に度胸を試されている。彼にとって日常は戦場と変わらない。

 それ以来、一度も川へは行かなかったし、子供たちもうるさく言ってくることは無かった。だが、それでもしつこく絡んでくる人物が一人だけ居た。母の実家のニ軒隣に住む少女、浅田千夏だ。

 彼女は家が近いせいか、幼い頃から家族ぐるみで付き合いがあった。なにより面倒な事に、彼女は悠太と特に仲が良かった。だからいつも悠太の愚痴を親身に聞き、何かと啓介に説教したり兄弟の問題に強引に介入してきた。

 啓介はそれが目障りで堪らなかった。幼なじみだか何だか知らないが、他人は他人だ。こんな山と川しか無い田舎町しか知らない彼女に自分の事など分かるはずが無いと思っていた。

_________ねえ、そんなに勉強ばっかりして楽しい?

 一年前の夏、例によって啓介の勉強を邪魔しに来た彼女はそう言った。それは彼女にとっては何気ない発言だったかもしれないが、啓介の自尊心を大きく傷つけた。自分の存在価値を否定しあざ笑っているようにしか彼は聞こえなかった。

 啓介は切れた。とにかく全力でこのお節介な女を否定してやろうと思った。彼は、千夏が高所恐怖症で飛び込みが出来ない事を指摘した。それは千夏自身の大きな悩みの種だったらしく、彼が想定していた以上に影響力があったようだった。

 千夏は言い返せない悔しさと恥ずかしさに顔を真赤にして、涙目で走り去った。人一倍負けず嫌いでいつも男子に負けないように気を張っていた彼女は、飛び込みだけが怖くてどうしても出来ない事が悔しくて仕方なかったのだ。

 その足で千夏は一人川に走り、一番高いと言われる天狗岩から飛び込んだらしい。その日は前夜の大雨の影響で川の増水がまだ収まらず、急流に飲み込まれた彼女が発見されたのは日の夕方だった。天狗岩よりずっと下流まで流されていた。

 啓介は増水した川がどれだけ早いか知らなかったし、まさかこうなるとは思っていなかった。確かに天狗岩を指定して彼女に行動を起こさせたのは自分だったが、やはり川の危険性を日頃から教わっていた千夏自身の責任の方が大きかった。激しい悔しさと自分への過信、そして運の悪さが招いた事故だったのだ。周囲の大人達もそれを認め、啓介を責めることは無かった。

 ただ、無慈悲な弟はそれを許さなかった。事件の発端となった口論の一部始終を廊下で聞いていた悠太は、彼の偏ったフィルターを通した表現で母親に告げ口をした。

_________悠太、それは本当なの? だとしたらあの子が原因で千夏ちゃんは……

 その瞬間から啓介の立場は最悪化した。母親は泣きながら彼を叩き、温厚な祖父ですら彼を叱咤した。

_________お前が千夏ちゃんを殺したんだ!

 弟のその言葉は、既にヒビの入った兄弟の溝を二度と戻らぬものにした。事件から葬儀までの数日間の田舎での生活は、啓介にとっても悠太にとっても暗く淀んだ日々だった。

 事の悪化を恐れた祖母は、兄弟を父親の待つ東京へ早めに帰らせる事にした。母親は謝罪と後始末の為に残ると言ったので、二人だけで電車に乗ることになった。事件から四日後の事だった。

 駅まで車で送られ改札で祖母と別れた兄弟は、お互い一言も喋らないままホームに向かい俯いたまま目の前に来た列車に乗った。地獄の炎のように赤く燃える光がコンクリートの地面を照らす、蒸し暑い夕暮れだった。


 頭の中が暗い雲で覆われていた兄弟には、その列車がいつもと様子が違う事に気付かなかった。兄も弟も通路を挟んだ座席になるべく離れて座り、お互い窓の外だけを見続けた。二人はずっと沈黙を続け、彼らしか居ないその車両はガラスが割れそうなくらい張り詰めた空気に包まれていた。

 その張りすぎた糸が切れたのは、窓の外が明かり一つない夜の闇に染まった頃の事だった。原因はごく些細な事だ。相手の落としたジュースの缶が自分の足元に転がってきたとか、その程度の事だった。なかなか駅に着かない事への苛立や空腹が彼らを最大限にナーバスにしていた。

 兄弟は通路を挟んで激しく言い争った。溜りに溜まった怒りをすべてぶつけ合い、そのうちに殴り合いに発展した。揺れる夜の車内で小さな兄弟は物を投げつけ合い、取っ組み合いになって争った。

 事もあろうに、列車がようやく停車したのは二人の争いが一番加熱している時だった。怒りに我を忘れた弟は、もう同じ電車にいたくないからここで降りろと兄に言い放ったのだ。啓介はすぐに散らばった自分の荷物を乱暴に掴み集めると、わざと大きな足音を立てて一人列車から降りた。もうどうにでもなればいいと思った。

 列車の外は真っ暗で、小さな古ぼけた駅舎だけが草原の中にあった。明かりは列車からのものだけだった。

 啓介一人だけが駅に降りても、列車はしばらくそこに留まっていた。彼は列車に背を向け、発車するまでそこで待ち続けた。

 やがて高く響く警笛の音がゆっくり三回響き渡り、扉の閉まる音がした。その時ふと、啓介は列車の方を振り向いた。

 信じられない光景がそこにはあった。

 窓から見える悠太と向かい合う座席に、見知らぬ少年がいつの間にか座っていたのだ。啓介と同じくらいの年齢のようだが、目鼻立ちが整っていて精悍な顔の少年だった。少年は俯く悠太に顔を寄せ、何か囁いているように見えた。

 啓介はすぐに直感した。こいつは、悠太の妄想から生まれた理想の兄という奴だ、と。それがどういうわけか自分にも見えている。

 弟はその少年に励まされたらしく、実の兄には決して見せないような顔で笑った。悠太が自ら消した空白をあの少年が埋めたのだ。二人とも、一瞬足りとも窓の外を見ようとはしなかった。

 深川啓介という存在は、今弟の中で完全否定された。

 列車が動き出し彼らの姿が遠ざかっても、啓介は呆然とホームに立ち続けた。冷たい夜風が草原を撫でていた。

─────────────────

 それから何日も経ったが、次の列車は一向に来なかった。啓介はずっと駅舎で列車を待ち続けた。鄙びた木造の駅舎は傾いて草が侵食し、忘れられたかのような寂しい場所だった。幸いにも雨風を凌げる駅員室があったので、彼はそこで寝起きする事が出来た。汚れて埃を被ってはいたが、駅に人が居た名残の品は引き出しの中からいくつも出てきた。

 食べ物は無かったので常に空腹だったが、近くを流れる小川の水と木の実、そして奇跡的に通りかかった行商人のおかげでなんとか一人で生き延びることが出来ていた。

 啓介は電池の切れかけた玩具のように日々を過ごした。この場所が何処なのか、さっぱり分からなかった。見渡してもどこまでも青々と茂る草原ばかりで、土地や路線に関する情報は駅の何処にも見当たらない。ただ、驚くぐらいに澄んだ空気と鮮やかな朝日や夕日のグラデーションは、今までの人生で見たことの無い美しさだった。

 およそ一週間位が過ぎたある夕暮れ、ようやく駅に列車がやってきた。最後に降りた列車と全く同じ、夜の闇のように黒々とした列車だった。乗客は居なく、驚くことに運転手すら存在しなかった。だが、確かに列車は動いていて、そこには心や意志があった。この列車は生きている。

 啓介は棄てられた駅員室で見つけた古い駅員服を纏い、駅帽を被って運転席に飛び乗った。そして昔からよくやっていた運転手の真似事をした。列車はそれに合わせるように扉を閉めた。高揚する心を感じながら夕日に向かう線路を見つめ、煤けた眼鏡を掛け直した。

 心なしか列車は速度が遅く、何処に行くのか決めかねている様子だった。それを感じた啓介は列車に向けて呟く。

_________どこでも好きなところに行ってくれ。僕はお前と旅がしたいんだ。

 そして、列車と少年の旅は始まった。

無限車内


 無限夜行という名の黒い列車は駅員服の少年を乗せて、様々な夜を走り抜けた。それらは皆どこかにありそうで何処にも無い、不思議な世界だった。どれも夢のように鮮やかで妖しくも美しく、彼の心のフィルムに強く焼き付いた。

 夜を渡るごとに彼が今まで生きてきた世界の記憶は少しずつぼやけていった。そしてついには自分の名前すら彼は思い出せなくなってしまった。よく列車に乗る旅人の男が言うには、それは異界を渡りながら生きる者に必ず起きる副作用のようなものらしい。男もその一人で、とっくの昔に自分の名と帰る場所を忘れてしまったのだそうだ。だから彼らは自らに適当な名をつけることによって自己を保ちつつ、自由気ままに旅をしているのだ。

 少年は自らを醒ヶ井と名乗ることにした。彼の持っていた切符にそう書かれていたからだ。恐らく元居た世界から乗った時の切符なのだろうが、もう思い出せないし戻る気も起きない。むしろ、名を変えることによって生まれ変わったような気分になり、清々しかった。

 副作用はもう一つあった。それは元居た世界での自分の存在が完全に消えてしまうという事だ。人々の記憶から消え、写真や映像などすべての記録からも消え、最初から居なかったような事になるらしい。副作用というより、異なる世界の存在を知ってしまった者への罰のような感じだった。

 だが彼はそれを悲しいとは思わなかった。灰色にくすんだ元の記憶よりも今のほうがずっと楽しく充実していたからだ。

 彼は常に駅員服を着て、無限夜行と共に過ごした。乗客が居ない時には掃除をしたり、寝台車の布団を干したりもした。彼は運転席を自分の部屋にし、その床で本を読んだり拾ってきた時刻表を見たりしながらくつろいだ。

 乗客はいくつかに分類することが出来た。この列車の事を理解して乗ってくる客、分からずに迷い込む客。そして”夜の人(よるのひと)“と呼ばれる存在だ。

 夜の人とは誰かの強い想い、願望などが実態となった存在であるらしい。それは死者の残留思念や過去の自分、誰かが作り出した空想の具現化など様々だ。彼らは存在が不安定で、太陽が沈み夜の闇が空を覆う時間にならないと姿が見えない。それが夜の人と呼ばれる理由でもあった。

 無限夜行は夜ばかり走る為、夜の人を沢山呼び寄せて存在を濃くした。亡くした大切な人に再会し、共に旅が出来た乗客は、この列車を夢を叶える列車と呼んだ。意志を持つ黒い列車はそれを喜んでいるように見えたので、少年も夜の人を受け入れた。列車の喜びは少年の喜びだった。

 少年は、時に切符を集めた。それは旅をしていく上でのちょっとした資金稼ぎのようなものだった。ずっと列車に乗っていると、線路に落としたり座席の隙間に挟まったりしている切符を拾う事がよくあった。彼はそれを拾い集め、市場の切符屋に売りに行った。切符の値段はその店から近いか遠いかでだいたい決まった。遠く異なる世界の切符は高く取引された。

啓介さん

 彼は決して切符を盗むことはしなかった。もちろん遠いところから乗ってきた乗客の切符を狙って盗めば高額になるのだが、彼はあえてそれしなかった。

 だが、切符盗みをする者は他にもいた。彼らは乗客や物売りの振りをして対象に近づき、切符を掠めとって高く売りさばいた。少年は彼らのような行為はしなかったが、落し物の切符を売る事も彼らとたいして変わらないと感じていた。どうせ、切符を失った乗客の末路は同じだからだ。

 そんな彼もある時、一度だけ切符を盗んでしまった。蒸し暑く湿った夜の事だった。

─────────────────

 その日、彼は列車に乗る乗客を観察する為、車内を端から端まで歩いていた。よく乗る客は彼に挨拶をし、見慣れない客は彼を駅員だと思い込んで怪しまなかった。行き先を聞かれることはあったが、そういう時は分かる範囲で正直に答えた。

 彼が乗客を観察するのは日課で、客層でおおよその進行ルートを予測する目的がある。彼は誰よりも列車と意思疎通しているが、行き先だけは本当に気まぐれで分からないからだ。もっともどこに行くか完全に知っていたら面白くないし、そうやって客を見ながら予想するのも彼の楽しみの一つだった。

 事の発端は三号車を通りかかった時だった。その日の三号車は人が少なく、のんびりと空気を掻き回す扇風機の音だけが響いていた。

 中央の座席に子供たちの影が見えた。この列車では見慣れぬ乗客だ。少年は駅帽を深く被り直すと、怪しまれぬように彼らを観察しに向かった。

 近くまで寄ると、うたた寝をしている一人の子供の姿が目に入った。丸く柔らかそうな頬を窓ガラスにくっつけながら口を半開きにして眠るその姿は、実に満足そうに見えた。

 駅員服の少年は、何故かその子供から目が離せなかった。その服も寝息も首から下げる財布も、すべてにどこか見覚えがあったのだ。頭の中に冷たい水が突然注がれたような衝撃を覚え、彼はしばらくそこで立ち止まった。

_________こいつを知っている。

 そう心の中で囁いた瞬間頭の防波堤は決壊し、洪水状態になった。消えたはずの記憶が脳を満たし、溢れ出てくる。押し戻すことは不可能で、一瞬で彼の忘れていたものはすべて蘇ってしまった。忘れるのは少しずつだったが、思い出すのはあまりにも早かった。そして彼は認識する。自分は深川啓介という名の地味な小学生で、目の前の子供が自分を追い出した実の弟であったことを。

 久々に見る弟の姿は、随分と幼く感じられた。それは弟の生きた時間と自分の時間にずれがあるからだった。悠太が一年過ごす間に啓介は三年くらい生きていたのだ。常に異なる世界を渡りながら旅をしていた彼の時間はいつの間にか歪んでしまったのだった。

 悠太は目の前に立つ駅員服に気付かず眠っているようだった。ふと視線を動かすと、向かいの席に座る人影があった。それは悠太よりも少し大きい子供で、艶のある黒い短髪に黒いシャツを羽織り、黒いボストンバッグを隣に置いていた。暗く単調な景色の流れる車窓を眺め、こちらに反応する様子は一切なかった。

 啓介はその少年の事も即座に認識した。間違いなく、弟と別れたときに突然姿を現したあの少年だった。

 黒い服の少年は当たり前のようにそこに座っていた。彼は恐らく元々悠太の脳内だけに居たのだが、この列車に乗ったことによって具現化したのだろう。悠太はこの少年を兄として一年間過ごしたに違いない。そう考えた上で弟の安心しきった寝顔を見ると、なんだか忘れていた負の感情が蘇ってくるような気がした。


「切符を拝見します」

 とりあえず駅員を装い、弟を眠りから覚ましてみることにした。

「切符を見せてください」

 三回くらい呼びかけてようやく悠太は駅員に気付く。しばらくぼうっとしながらその姿を見つめ、状況に気づくと慌てて自分の切符を探し始めた。首からかけた子どもっぽい柄の財布を漁り、たくさんの賑やかなカード類を窓際の机に広げると、やがて二枚の切符を探し出した。

 それから何を思ったのか、カードの山からもう二枚何かを取って合計四枚の紙類を駅員に渡した。見てみると二枚は確かに彼が使った切符のようで、“東京→名古屋”と書かれていた。それぞれ乗車券・特急券と書かれており、二枚で一組の一人分の切符であることがうかがえた。

 残り二枚はイラストや文字が派手に印刷された、キラキラと玩具のダイヤのように陳腐に光るカードだった。一枚は装飾の多い剣のようなものが描かれ、もう一枚には黒いマントを纏った戦士のような少年の姿があった。

 急に笑いがこみ上げ、咄嗟に啓介はポケットに入れていた手帳を取り出して自分の顔を隠した。カードに描かれていたテレビ番組のヒーローらしきキャラクターが、目の前の少年にあまりにそっくりだったのだ。

 そして啓介はその四枚を盗み去った。初めての切符泥棒だった。

─────────────────

 運転席の床に戻ると、啓介は手にした四枚の小さな厚紙をじっくり眺めた。汗で少し湿ってしまっていた。

 盗んだのは衝動的な行動だった。最初は弟を起こして自分に気付くか試しただけだったが、あまりにもただの駅員だと疑わないその滑稽な様を見ているうちに気分が変わった。少しこの二人を困らせてやろう、と思ったのだ。きっと今頃、行き先と帰る場所が思い出せなくなって戸惑っている頃だろうか。その姿を想像し、啓介は分厚い眼鏡の下でほくそ笑んだ。

 黒い布を頭から被り、明かりを落とせばまず見つかることはない。悠太達が自分を探しに来た時のことを考え、啓介は闇に身を潜めた。案の定、それからすぐに先頭車両を歩く足音が聞こえた。足音はすぐ近くまで近づき、窓から運転席を覗き込む仕草が感じ取れた。

 気配は二度ほどあった。一度目の足音が去ってから数十分後に再び誰かが運転席を覗きに来たのだ。姿を確認することが出来なかったので誰だか分からないが、子供の気配であることは想像できた。恐らく悠太と、あの少年が片方ずつ来たのだろう。

 だが二度目の気配の後に聞こえた声は、想定外の人物のものだった。

 運転席の壁の後ろで、二人の子供の会話が聞こえてきた。一人は悠太のものだったが、もう一人は同年代くらいの少女の声のようだった。その目が覚めるほど澄んではっきりとした声の主を、啓介は知っていた。自分が原因で不幸な末路を辿ってしまった少女・千夏だ。彼女が今ここにいるということは、誰かに呼び出された夜の人だという事なのだろう。夜の人は足のある幽霊とそれほど違いは無い事もある。そして呼び出したのはきっと悠太だ。啓介

はそれを彼女らの会話から推測できた。二人の会話はどこか奇妙だったからだ。

_________千夏ちゃんこそどうしてここにいるの?

_________家に帰る途中だったんだ。

_________転校しちゃった友達がいてね。

 どうやら悠太は千夏の死を忘れているか、無かった事にしているらしい。千夏はそれに合わせるように会話していた。それは彼女の意志ではなく、呼び出し主である悠太が無意識に彼女の記憶の一部を封じているからに違いない。夜の人には、呼び出し主の願望が強い影響を及ぼすのだ。だから今の千夏は悠太に都合の良い事しか言わないし、考えない。千夏の中でも啓介の存在は消され、代わりにあの黒い少年が埋め込まれるはずだ。悠太がそう望んでいるのだから。


 悠太たちは市場で列車を降りた。彼らが“駅員姿の切符泥棒”を追うために切符屋を探そうとしている事は、旅人の男が教えてくれた情報だ。男は啓介が記憶を失くしたばかりの時に世話になった恩人で、同じ境遇を持った頼れる先輩のような存在だった。男は降りる前に運転席に寄り、啓介に声を掛けた。

_________お前が切符を盗むなんて、何かあったのかと思ってよ

 彼はそう言った。啓介は言葉が見つからず答えられなかったが、彼をよく知る旅人は既に理解している様子だった。男は頑張れよ、と啓介の肩を叩くと、市場とは反対方面の湖の方へ去っていた。また行き先の決まらない旅を続けるのだろう。

 

 啓介は弟たちの後を追った。拾い集めていた切符を売る目的もあったが、やはり彼らの行動が気になっていたからだ。人混みと情報量の多いこの市場街は、身を隠すには丁度良かった。

 彼らが写真屋で道を聞いているうちに先回りし、切符屋へ走った。切符屋の親父に拾った切符だけを売り、軽く事情を説明して店の奥に隠れさせてもらった。この汗かきで脂肪の多い店主は人当たりは悪いが面倒見は良い。啓介はいつも切符を売りに来ては、屋台で温かい汁物を食べさせて貰っていた。

 悠太たちは十数分後に切符屋へ辿り着いた。彼らは予想通りの質問をし、店主は啓介との打ち合わせ通りに返答した。啓介は彼らが必死で求める切符をポケットの中で握り締め、その様子を影から窺った。盗んだ切符を売る気は無かったが、まだ返す気にもなれなかった。もう少し困らせて、彼らがどういう行動を取るのか見ていたかった。

 警笛が鳴って悠太たちが店から走り去ると、啓介は店主に礼を言ってから後を追った。焦らなくても無限夜行が彼を置いていくことはまず無い事だ。合図の為に警笛は鳴らすが、いつも彼が戻るまで待っていてくれるのだ。彼と黒い列車は長旅で心を通じ合い、友人のような関係になっていた。列車は物を言わないが、その動き一つ一つで感情を伝えた。啓介も掃除やメンテナンスを丁寧にする事で列車にいつも想いを伝えていた。

─────────────────

 闇に紛れながら運転席まで戻ると、待ちかねていた列車は勢い良く息を吐き出して重厚で複雑な車輪を動かした。啓介は汗をかいた駅員服の重たい上着を脱ぎ、操縦機械の下から錆びた金属製の工具箱を取り出した。ちょっとした故障を直す時に使う、愛用の道具箱だ。小型のドライバーやピンセットを取り出すと、彼は市場の帰りに拾った物を床にそっと置いた。

それは小さな黄色い電車の玩具だった。

 小学三年生の頃だっただろうか。五月の連休に、父と弟と三人で電車の博物館に行った事があった。鉄道好きの啓介が何度も父に頼みこみ、ようやく休みをとって連れてってもらった場所だった。その帰り際、ミュージアムショップで買って貰ったのがこの黄色い電車だった。小型ながらもディティールはしっかり作られていて、出来がいい。裏側のスイッチを入れるとカタカタと揺れながら一生懸命前に進んで行く様が可愛くて堪らなかった。

 だがそれはすぐに悠太の物になった。鉄道の事など大して知りもしないくせに、この要領のいい弟は突然大泣きして駄々をこねて横取りしたのだ。弟は電池で動くロボットなどが好きであったし、これもきっと電池で動くから気に入ったのだろう。啓介は結局奪い返すことが出来なかった。こういう時、長男はいつも不利なのだ。

 悠太は黄色い電車を乱暴に走らせ、ロボットと戦わせて階段から落として壊しては泣いた。啓介は文句を言いながらいつもそれを直してやった。機械いじりは家族の誰よりも得意であったし、奪われたとはいえ大好きな電車が壊れたままなのは我慢出来なかった。普段はあまり口を聞かなくても、この玩具が壊れた時だけはいつも悠太は兄の元に来た。そしてちょっと不服そうな顔をしながら修理を頼んだ。

 小さなネジを丁寧に締め直し、スイッチを入れて動作確認をすると機械はゆるゆると動いた。電池はまだ大丈夫だったらしい。玩具は長い眠りから覚めたかのようにぎこちなくモーターを回転させ、ゴムの車輪は砂くずを跳ね飛ばしながら回った。啓介は満足げに頷き、それを見つめ続けた。

_________啓介?

 その時、突然ガラスの向こうから声がした。

 彼は全身に鳥肌が立つのを感じた。この名前で誰かに呼ばれるのは三年ぶりだったからだ。振り向くと、運転席を覗き込む千夏と目が合った。海底の如く青白い月明かりに照らされた彼女は、ガラスに手のひらを当ててじっとこちらを覗き込んでいた。その透き通る肌は熱を帯び、瞳は赤く充血していた。

_________啓介……だよね?

 彼は反射的に無言で頷いた。少女は頬の緊張を緩め、小さく微笑んだ。

 月夜の車内で、二人は会話をした。ガラス越しの声は曇って聞きづらかったが、丁寧に喋る彼女の透明な声はちゃんと耳に届いた。千夏は市場の切符屋の指摘によって自分の持つ切符の存在を思い出したらしい。それは切符屋で盗み聞きしたやり取りの中で、唯一予期しなかった出来事だった。啓介が弟の姿を見て記憶を戻したのと同様に、彼女もちょっとしたきっかけで一気に記憶が戻ったようだった。それはつまり、悠太が彼女に掛けていた記憶の鍵が開いた事に他ならない。

_________随分雰囲気が変わったね。何か大人っぽくなった。

 千夏はそう言って啓介の曇った眼鏡の先の瞳を見た。弟が幼く見えたように、彼女から見た三年後の啓介の姿は随分成長して見えるのだろう。彼自身はあまり自覚が無かったが、背も伸びたし体は大分成長していた。

_________会えて良かったよ。私……啓介に謝らなきゃ。

 千夏は再び真顔に戻ると、湿り気を帯びた瞳で独白を始めた。啓介は暗い運転席の床でそれを黙って聞いた。

 千夏は啓介を恨んでなどいなかったし、嫌ってもいなかったようだ。彼女は啓介が他の子供たちのように太陽の下で遊んで欲しい、もっと心の距離を縮めたいと思っていたのだった。勉強しか見えない彼に、楽しい事や美しいものを知って貰いたかったのだ。啓介はその時初めてその感情が理解できた気がした。悠太がやって来て慌てて隠れた後も、ずっと胸に穏やかな初夏の風がそよいでいた。

 彼女の降りた蛍の辻は誰かに呼ばれた夜の人が帰る場所の一つで、啓介ですらまだ知らない遠い世界と繋がる場所だった。蛍の辻から乗った夜の人は、そこに帰れるように往復切符を渡されるのだ。それは彼らの中での一つの決まりらしい。

 千夏は辻へと去る直前、運転席の窓から顔を覗かせていた啓介に大きく手を振った。蛍火に照らされた少女の表情は優しく、夜空の一等星のように輝いて見えた。啓介は被っていた駅帽を手に持ち、大きく振り返した。

 暖かい涙がにじみ、星屑が光の筋を描いた。啓介は眼鏡を外し、シャツの袖でそれを拭った。拭っても拭っても瞳の熱は冷めなかった。

─────────────────

 列車が動き出して蛍たちが完全に見えなくなるまで、啓介は運転席の扉の前から動かなかった。視界を暗い森が覆い、ふと後ろを振り返ると通路の先の扉が開いているのが見えた。その暗がりの中に、赤く鋭く光る二つの点があった。

 無限夜行は進路を変え、激しく揺れながら森を抜けて夜を渡った。そして突然差し込む夕日の前で急ブレーキをかけ、強引に動きを止めた。車体に負担をかけるその行動は、友人である駅員服の少年の為のものだった。

 啓介は列車に礼を言うと、勢い良く外に飛び出した。そして茜色に染まった木造家屋の海へ必死で走った。

 どうして逃げようと思ったかは、あまり深く考えていなかった。ただ、目の前に迫る殺意の塊に対して防衛本能が働いたのだ。逃げないと、殺される。黒い塊は瞳を赤く光らせて突風のような速さですぐに追ってきた。

 悠太の理想の兄であったはずの少年は夜行列車に長く乗りすぎた為、自我が強くなってしまったようだ。無限夜行の走る世界や列車の空気は夜の人の力を強くするが、強くなりすぎた力は時に悪影響を及ぼす事がある。自我を持った黒い少年は、悠太の記憶が戻り始めている事に焦りを感じていたらしい。彼にとって悠太の兄である事は存在理由なのだ。

 悠太が忘れていた事を思い出したのは、千夏の行動がきっかけだった。自分の意志を取り戻した彼女は、悠太が彼自身で真実に辿りつけるように助言をしたのだった。

_________悠くんのお兄ちゃんは、啓介なんだよ。そうでなくちゃ駄目だよ。

 ガラス越しにそう言っていたような気が、啓介にはしていた。


  黒い闇は次第に距離を縮め、ついには駅員服に追いついた。背中に強い衝撃が走り、啓介は地面に倒れこむ。すぐさま立ち上がろうとしたが、体重で押さえ込まれた。

_________お前なんか、消えてしまえ

 少年の持つ木の棒が、顔面に容赦なく叩きつけられた。眼鏡のフレームが歪み、外れて熱された地面に転がる。額に強い痛みが走り、温かい血が髪を伝って流れた。

 逆光で影になった少年は悪魔のように笑い、瞳を光らせた。だが、その乾いた声には必死さが感じられた。自我を強く持ってしまった彼は、自分という存在がなんなのか気づいてしまったのだ。空っぽで重みの無い、何かの代わりでしかない自分の存在に。悠太に認められなければ消えてしまう存在に。

 黒い少年の想いとは裏腹に、呼び出し主である悠太の心は彼から離れ始めていた。それは皮肉にも、少年が自我を持って悠太の思い通りに動かなくなったからに違いなかった。少年は啓介を完全に消す事で自分の存在をより濃くしようとしたが、あまりにもそれに執着しすぎた。

_________お前が居なくならないと、俺は……

 彼は恐いのだ。

 自分の存在理由を否定されるのが恐いのだ。


_________おかしいな。いつかの僕と同じじゃないか。

 啓介は朦朧とする意識の中で、そう思った。

 そして、審判を下す声が背後から響く。

画像3


「啓介」


 黒い影は、否定された。


──────────────────
続く

著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。

投げ銭、心と生活の糧になります。大歓迎です!!