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「LGBTQ+です」と自己紹介するひとが、どうにも苦手だ

 自衛を含んだ偏見の話をする。

 僕はいわゆるLGBTQ+当事者だ。毎回ちょっと意外な顔をされるが、基本的に、他の当事者はちょっと苦手。初対面だと警戒度合いはさらに跳ね上がる。理由は単純で、たまに「距離感がおかしい人」とカチ合うことがあるからだ。自衛を含んだ偏見は、一緒にいて心がしんなりするひとを見分ける機能を持っている。

 「私〇〇なんです~」って自分のカテゴリを申し添えて自己紹介をしてくるひとが、単純に苦手なのだ。だってそれって初対面でいきなり「俺、男なんです~」って言ってくるのとおなじに聞こえる。「だから?」以外の感情が湧かない。
  発言の意味も意図も汲み取ることはできる。カテゴリを明示することで、話すきっかけを広げたり、距離を縮めやすくしたいのだろうと僕は解釈している。それらの事情と文脈を読み取ってもなお、依然として、ふつうにイヤだ。「へ〜」以上の返答をひねくり出すのを億劫に感じる。

 さらに言い換えると「LGBTQ+当事者」もしくは「LGBTQ+に理解や興味がある」というカテゴリに属しているだけで、僕という個人と距離を詰められると考えている人が苦手だ。「あ、じゃあLGナントカならなんでもいいんですよね」って思う。クソひねくれている。そしてLGBTQ+といちいち書くのが面倒になってきている。なんにせよ、僕のことを「例の当事者のひと」としか見ていないニオイをかぎ取ると、いつも数歩後ずさってしまう。

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僕の中ではうっすい概念

 たまにいる。「ゲイの友達欲し~~~」みたいなひと。僕には「誰でもいいから彼女欲し~~~」と同じ音に聞こえる。別にそんなの気にしない人もいるんだろうが、僕は苦手だ。

 「LGBTのともだち、欲しかったんです〜!」って言われても、なんて答えたらいいかわからず「へー……」みたいな音が出る。相手はそれで仲良くなれると思い込んでいることがしばしばあるので、「あれ?」みたいな空気をにじませてくる。知らんがな。カテゴリが同じだけで仲良くなれると思わんでくれ。僕とあなたは違う人間で、たまたま同じ属性を一部持っているだけの赤の他人なんだ。初対面からいきなり大股で心の距離を縮めんでくれ。びっくりするから。

 つまるところ僕は、順序が逆じゃない? と思っている。なにがって、まずは一人の人間としてあなたがいて、僕がいる。LGナントカはその一部であって、別にメイントピックではない。僕はそう思っている。性同一性障害とか性別違和とか性別不和とかいわれると、どうしても「○○のナントカさん」になってしまう。「ナントカさんが○○」ではなく。

 僕はまず「倉谷」という人間であって、「性同一性障害の倉谷さん」ではない。逆だ。僕という存在がいて、そのあとに障害うんぬんの話が来る。障害なんてのは僕のうしろを気まずそうに歩いていればいいのであって、エラそうに前に出しゃばる権利などない。
 そもそも僕は現在、彼女のことを配偶者と呼べない以外に不便を感じていないから、障害という言葉をあてはめていいのかどうかもビミョーなところだ。
 調べたら2018年の段階で「障害」ではないと定義されたらしい。精神疾患扱いしてたけど、それは違うよねという話になったそうだ。もとから薄かった存在感がマッハで薄くなった。なんならもう僕の中にはそんなもん無いんじゃないかな。

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ラムネ味が好きな僕とイチゴ味を好む人

 
 話を戻して、属性おんなじ宣言をする人について。趣味が同じってんならまだわかる。自分で選んで好きでいて、続けているなら話は合うかもしれない。だけど、好き好んで持っているわけでもない形質がおなじだからといって、急に距離を詰めていい理由にはならんと思う。趣味にしたって「音楽が好き」で共通していたとしても、好きなアーティストが違えば「あっ、ふ~ん……」ってなっちゃうこと、あるでしょう。

 たしかに多少分かり合える部分はある。こう、苦労したこととか、あるあるネタとか。だけどそれを全員が求めているわけではない。少なくとも僕はそういう意図の「わかりあい」を、初対面の人に求めない。
 相手からそれを欲しがられるとふつうに距離をとりたくなる。単純に好みじゃないのだ、そういうのが好きなひとも他にはたくさんいる。僕はラムネ味が好きだが、イチゴ味が好きな人もいる、みたいな話だ。

 繰り返しになるが、これは自衛を含んだ偏見の話である。こんな風に思っている当事者もいるんだなぁ、程度に捉えてもらえると嬉しい。

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たぶん当事者以外は言いづらい、めんどくささ

 偏見ついでにもうひとつ。当事者でもおっつけない量の専門用語がぽんぽん生み出されるから把握するのが大変だ。当事者以外からしたら更に難儀だろうけど、「また用語増えたんすか?」なんてちょっと言いづらいんだろうなと思う。だから僕が言う。めんどくさい。

 性別って複雑だから、研究したりいろんな対処を考えたり、当事者を含めた周りが向き合っていくために「ことば」が必要なのはよくわかる。
 でも、LGBTQ+って書くのは実際めんどくさい。LGBTにQが追加されたことも、だいぶ後になってから知った。当事者ですらこうなんだから、ヨソ様が言及する際の面倒くささは察するに余りある。

 これもよくある勘違いなんだけど、LGナントカさんはLGうんぬんにとても詳しくて、なんなら他のLGナニガシにも理解があると思ってはいませんか? そんなことはありません。僕はLGBTQ+のTのひとですが、LGBとQのひとについて詳しくはないし彼らの苦しみを理解できるとは思いません。なんならおんなじTのひとでも、環境もちがえば感じ方も違うので、完全に理解できるなんて露ほども思ってません。僕にあなたの気持ちはわかりません。

 どんな人相手でも、相手のことをよく観察し、理解しようと勉強するくらいが僕のできるせいぜいのことです。わざわざ勉強するよってひとも、特に多いとは思いません。むしろ珍しいです。義務でも仕事でもないのだから、興味がなければそりゃ知りませんよ。他人のことですもん。

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「めんどくささ」について思うところ、2つ

 1つ。世界というのは知れば知るほど複雑で、なにひとつとして単純にはできていない。めんどくさくて当然だ。複雑で白黒つけづらいことこそ、本質に近いとすら思う。

 だからなんというか「めんどくせえな」と思っても、別にいいと思っている。「こりゃあ複雑で難しいぞ」という気持ちは、ものごとについてある程度わかろうとした場合に湧いてくる感情でもあるのだから。

 「性別はグラデーション」という言葉がある。まったくもってその通りだ。だが軽率に視野を広げてみると、見渡す限り、目に映るすべてのものがグラデーションだ。つまり性別という問題がとりわけ複雑なのではない。たまたま注目されたから、深さと複雑さに気付いた人が心なしか多かったというだけの話だ。当事者である僕にとっては幸運なことだけれど。
 世の中のすべては知れば知るほど「めんどくせえ」ものだ。性別に限った話ではない。それから、面倒くさいのは悪いこととは限らない。

 2つ。僕が「めんどくせえ」と思えるのは幸運なことだと思う。僕は僕でありそれ以上でも以下でもない、という何の根拠もない思い込みがある。度重なる名称の改善についても「外野からいろんな名前を付けられている……あ、また呼び方変わったの!? へえぇ……」という認識になってしまう。呑気なものだ。

 僕は、一般に「性同一性障害」に分類される人間である(最近では「性別不合」というのが正式らしい)。それでも平然と暮らしていけるのは、こういった人間がいることを身をもって示してくれた先人たちのおかげだ。性同一性障害など想定もしていなかった時代と戦って、傷ついて、僕らを守ってくれた人たちの肩に乗っかって足をぶらぶらさせているのが僕だ。

 さっきも話したが、2018年にWHOが認識を改めるまで、性同一性障害は「精神疾患」だった。いまでは「精神疾患」から外れ、「○○障害」と呼ぶのもおかしいよね、ということで「性別違和」とか「性別不合」という呼び名が提案されている。

 これはひとえに第一線で研究を続け、声を上げ続けてくれた先人のおかげだ。僕が二週に一度お世話になっているクリニックの先生なんか特にそうだ。著書、めっちゃある。あんなに忙しいのにいつ書いてるんだろう。不思議だ。

 こんなことを言う僕はとても呑気に見えるだろうし、今も戦っている人からすれば、いろいろ通り越して失礼と思われるのかもしれない。

 でも、じつのところ、すべてのLGBTQ +がいつも大真面目に「性別」について考えていないといけない、なんて決まりはどこにも存在していない。あなたはビックリしたかもしれないが、本当の話だ。

 ちょっと考えて欲しい。日本に生まれたひとの中で「日本人が歴史の中でどう生き残ってきたのか」「自由や権利をどうやって勝ち取ったか」を事細かに勉強し、いつも胸には先人への感謝がある、というひとは一体何人いるだろう。たぶんそこまで多くはないんじゃなかろうか。僕も同じだ。LGうんぬんについて今のところあんまり興味がないので、積極的に勉強はしていない。

 今後「性別のことについて悩んでいるひと」に向けて文章を書くとき、間違いがないように細かく調べたり勉強したりはすると思う。今回もほんのちょっとだが調べた。でもそれだって僕にとっては日本の歴史をまなぶのと同じくらいの熱量だ。間違ったことを言わないため、知識不足で人を傷つけるのは避けたいと勝手に思ったから調べているだけであって、積極的にワクワクしながら知りたいと思うほどの興味はない。

 なぜこんなことをわざわざ言うのかといえば、僕がうんにゃら障害をもっていると知ると、たまーに声をかけられる。「LGほにゃほにゃのサークルがあるよ」とか「こんな活動があるよ」と紹介してくれるのだ。例のレインボーな旗をひらひらさせて。

 どうやら「LGなんとかさんは当事者どうしで集まり、励ましあって社会活動をする🏳️‍🌈」みたいなイメージがあるっぽいのだ。

 僕は普通に家でゲームしたいし、人とワイワイするのは苦手だから、そういうのには行かないです。のんきでごめんね。

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主従をまちがえてはいけない

 まとめると、僕は自分の性別にまつわる問題をあまり重要視していない。あくまでも僕という人格が主で、性別が不合している点は従だ。乱暴な言い方だがこの人生の主人公はすべからく僕であるからして、ナントカ障害なんてのは、うつむいてトボトボついてくればいいだけの話だと思っている。

 ここからは僕の好みの話だが、自分の人生のいちばん大きな道を「障害」とか「問題」とか「昔、苦労したこと」に歩かせてしまっているひと、というのがいる。

 もちろん、色々あって傷ついてしまって、ほんとはイヤなのに後ろを歩かされている場合もある。たまたま調子が悪くて、前をとられてるひともいる。
 でも僕は遠くで見ていて、無責任にいろいろ思うわけです。もしあなたが、どちらが前に出て歩くのか選べる状況なのだとしたら。わざわざ自分から後ろを歩かなくてもいいのになって。もし忘れちゃってたとしたら、自分は前を歩いていい存在だってことを思い出せたらいいよねって思っています。

 僕がイヤなのは、前を歩いているのは僕なのに、わざわざ後ろに張り付いてるナントカ障害くんに「だけ」話しかけるようなひとだ。
 僕自身なにか張り付いていることをすっかり忘れているので、目の前の人が急に虚空に話しかけたような気がしてビックリする。うわ! あぶないひとだ! と誤認してしまうのでやめてほしい。

 これは最初から最後まで「僕がどう思うか」という話なのであくまで参考程度に聞いて欲しいけど、一度ナントカ障害のことを完全に忘れてみるといいんじゃなかろうか。人と話すときも、じぶんを見つめるときも。障害をいったん脇におしやって、それでもしつこく残ってるものをよーく見てみる。じぶんの話に絞れば、じぶんの持ちものや倉庫の中身を確認する、棚卸しをするのはとてもだいじなことだ。

 じぶんの中の巨大冷蔵庫や地下貯蔵庫の確認がおわり、ついでに掃除も終わらせたら、帽子くらいの気軽さでヒョイっと「なんとか障害」をトッピングしてみる。正直いらねえと思っているかもしれないし、僕もこんなもん抱えずに済むならそうしたいが、一応じぶんの持ち物なのでちゃんと持っている。

 結果、ナントカ障害も含めてトータルで「じぶんはこんなかんじ」とわかれば、それはバンザイなできごとだ。今後は使いやすいリュックに詰めた「じぶんの出来ること」や「性格」「得意なこと」「苦手なこと」を使って、人生の王道をずんずん歩けば良い。たまにはシャボン玉を吹いてのんきに過ごすのも一興だ。

 帽子をかぶっているせいで、ひとからじっと見られることもある。帽子があるから、ひっかかって通れない道もある。風が吹けば飛ばないようにおさえなきゃいけないし、桶屋は儲かるし、たいへんなことが多いのは事実かもしれない。

 それでも、あなたの人生はあなたのものだ。わけっこするにしたって、あなたを最大限たいせつに扱ってくれる人とわけっこして一緒に歩くべきだ。少なくともナントカ障害に、道の真ん中をエラそうに歩かせる必要はないし、他人にそんなことを強制されるいわれもない。

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 「あなたは、好きに生きていいんですよ」なんて、僕は他人だから気軽に言えるわけです。ただどうせ気軽にことばをかけるなら、背中を押したりさすったりする言葉がいいなと思います。だから僕はこんな話をはじめました。

 べつに、当事者だからって24時間365日ずーっと、なんたら障害について思い詰める必要はないし。自己紹介の時にわざわざ言わなくてもいい。言いたかったら言えばいい。言わなきゃ不誠実かもしれないなんて思う必要はない。

 実際僕も、ふだんから積極的には口に出さない。必要に迫られた時か、そういう話をしたい時だけ思い出したように話す。そんな程度でいい。

 障害うんぬんは確かに大変な一面がある。だからといって重く扱う必要はない、と僕は思う。雑にほっとけという意味ではない。ちゃんと向き合った上で、まあ、自分のものだし持っとくか、くらいの熱量でも別にいいんじゃない? というお話です。

 気楽にいきましょうよ、おたがいに。

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