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「小さな不快」の行き先、どうしてますか。

人と関わる仕事をしていると誰しもが経験することかもしれませんが。

自分たちの中で、しょんぼりすることベスト?ワースト?3に入るのが、「ぞんざいに扱われること」です。

くらしアトリエは地域デザイン事業としてデザイン業務を行っていますが、それはあくまでもNPO活動の一環であり、「地域で頑張る人をデザインというツールで応援したい」という気持ちで取り組んでいるもので、それはそれは熱意と誇りを持っているわけですが、たまに「NPOなんでしょ、安くしてよ」的なことを言われたり(NPO法人のことが全然理解されていない…)、いわゆる有名なデザイン会社ではないせいか、露骨に「下!」に扱われたり、そもそも存在自体なかったかのように振舞われたりすることもあって、歯がゆい思いをしたりして、しょんぼりすることが多々あります。

「ああ、今、ぞんざいに扱われている‥」と。

これらは、デザイナーがどうこうというのではなく、「仕事相手として自分たちとどう相対しているのか」という問題、あるいは「思いやり」と「想像力」の問題であろうかと思います。

メールを通じてのやりとりも多いのですが、メールから「ぞんざい」感を感じることもあります。

相手への思いやりと、「こう書いたら相手はどう思うかな…」という想像力…。たかがメール、されどメール。言葉から気持ちがにじみ出ているんですよね…不思議なことに。言葉って思いのほか、文字以上に重みを感じたり、刺さったりすることもあるので、気をつけなきゃと思います。

こういう経験をすると、ああ、自分も同じように取引先の方たちのことをぞんざいに扱っていたのではないだろうか、皆さん怒っているかもしれない…と不安になります。人の振り見て我が振り直せ。人間対人間、どんな業種であっても、仕事を離れたとしても、常に心を尽くして想像力を働かせながら、楽しく話ができる関係性を構築したいものです。

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…ところで、そういう「ぞんざい経験」をしたとき、私たちは鈍感なのでその場ではそのことに気付かないことが多く、だいぶ時間が経ってから「…なんかさっきのあれ、おかしいよね」「そうだよねえ」となることが多いのですが、仕事の同僚に「なんか凹んだわ…」「だよねえ」とか「なんかおかしいよね??」「分かる分かる」と言い合えるというのが、怒りや落ち込みをうまくコントロールする秘訣だと思っています。

愚痴を言い合ったり、時に泣いたり笑ったり、感情を共有できる人が同じ場所にいるというのはとても心強く、気持ちのマネジメントもしやすいですよね。仕事の同僚じゃなくても、仲の良い友達とか、家族とか、とにかく「言い合える人」がいてくれるだけで、小さな怒りは処理できる。

そう感じたのは、先日回ってきたこちらのツイートがきっかけでした。

「小さな不快をスルーしない技術」という表現がとても新鮮でした。

普通、怒りはスルーするのが技術であり、人として徳が高い、みたいな構図があるのですが、小さな感情をスルーせずにその都度向き合うことで、大きな怒りの爆発を避けることができる、というのは、なるほど確かに自分たちにズバリ当てはまっているなあ…と感じたのです。

「そんなことで怒るなんて器が小さい」という呪いみたいなのがあって、ぐっと我慢していた…ように感じていたけれど、そうではなく、ちゃんと仲間や家族と共有することで処理できていたんだなあ…と妙に腑に落ちました。

それと同時に、過去にあった「突然キレられた事件」たちは、私たちに向けられた小さな怒りが、誰にも共有されることなく積み重なった結果、限界を超えてぶつけられたものなのかもしれないなあ…と、あらためてあれやこれやを思い出したりしたのでした…。

個人的には、上記の話がTwitterで議論される、というのが良いなあ、と。Twitterって「特定の人に怒りや不快の矛先を向ける」のに使われることが多くなっちゃったツールだけれど、こうしてなるほど!というつぶやきに行き当たることもできるのだなあ、と嬉しくなりました。


活動をしているといろんなことがあって、いいことばかりではありません。

泣いたことや怒ったこと、大小合わせたらキリがないほどです。

でも、それを誰かと共有できるということはありがたいことなのですよね。

普段はグループラインやSlackを通してスタッフとやりとりするのですが、そこにも雑談ネタのチャンネルがあり、そこに感情を書いたりもします。

これも、小さな感情のひとつの処理方法であり、言葉として外に出すことでほかのスタッフとやり取りしながら感情の整理ができる。しばらくしたら笑い話になることもしばしばです。

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良いことも、悲しいことも、楽しいことも辛いことも、「分かち合える相手」というのはありがたい存在ですが、小さな怒りや小さな喜びを分かち合う「誰か」がいない、という人は、それを「言葉」にして投げかけてみる、というのが良いかもしれません。

投げた言葉をどこか遠くで知らない人が拾い上げて、「分かります!」と受け止めてくれるかもしれない。言葉ってそのためにあるんじゃないかなあ、と思うのです。これは先週のコラムで書いた「考えて形にすること」にも通じることです。

SNSで無数につぶやかれる言葉のひとつひとつも、もしかしたら「分かります!」という相手を探すためのものなのかもしれませんね。オンラインでもオフラインでも、誰かの投げかけた言葉に対して良い連鎖が生まれる世界になったらいいなあ…と思います。

そのためにはやっぱり、「思いやり」と「想像力」が必要なんじゃないかな。


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