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僕は大嫌いな野球を続けた / 少年野球編


小学3年生がもう直ぐ終わろうとした頃に、小学校に入って一番最初に友達になった子から少年野球チームの体験に誘われた。

当時のことはあまり覚えていないが、彼はほぼ野球をやることを決めていたっぽい。しかし自分は彼が一人だと心細いと思ったから、よく分からない野球というスポーツを体験することになる。

母親の話によるとその前にも一度体験に行ったそうだが、全く覚えていない。

それまで自分はゴルフを習っていて、母親の勤務先である打ちっぱなしのところでプロの方にレッスンを受けていた。

しかしこれも自分から進んでやったのかと言われると全く覚えいないけれど、多分母親が始めたことだと思う。

鬼ごっこやドロケイなど、走るのは好きだったけれど、それよりも友達と遊戯王などのカードゲームをしたり、家でゲームをしているほうが楽しかった覚えがある。

そんなインドアな自分が野球の体験に誘われてしまったのだ。記憶が正しければ母親からその話を聞いた時2回くらいは断ったと思う。それでも母親が誘ってくれた彼の名前を出して粘るので、

(とりあえず1回行ってチームには入らなきゃいいや)

と思って一応体験には行くことにした。



体験が終わった頃にはなぜかチームの帽子を渡されていた。

「???」

本当に意味がわからなかった。入るなんて一言も言っていないのになぜか入団が決まっていた。ふざけんなと思ったし、この時は母親の言っていることが全く信じられなかった。


やりたくない仕事を無理やり押し付けられた気分だ。まぁその当時は仕事したことなんてもちろんなかったけど。


それからというもの、毎週土日はチームの活動に行くことになった。

もうほんとに毎日行きたくなかった。

家を出る前に泣いた記憶はたくさんある。本当に行きたくなかったから。

でも無理やり行かされて、自転車を漕いで渋々グラウンドに向かった。

ゴルフをやっていたのでバッティング練習は楽しくて好きだった。始めたばかりでも遠くに飛ばせた。しかし守備は大嫌いだった。

内野ノックはほとんど捕れ無かった記憶がある。というかちゃんと捕った記憶がない。ノックをやれば80%エラーするくらいの感じだったと思う。それくらいに壊滅的だったし、みんなに馬鹿にされるのも嫌だった。

チームメイトにいじめられたこともあった。ノックの順番を永遠に飛ばされて、みんなに笑われた。そして泣いて母親のもとへ走って行った。

もうここまで読んでいたあなたは理解していると思うが、本当に嫌だったし苦痛だった。

こんな状態なのに辞めさせてくれなかった母親を今となってはヤバいと思いつつも、辞めさせなかったから今の自分がいるのは間違いない。


4年生に上がった頃にはだいぶチームに馴染んできたのか、そこまで嫌ではなくなっていた。

それでも使用するグラウンドのうち、フリーバッティングができないグラウンドに行く時はとても憂鬱だった。内野ノックをやらされるからだ。


ポジションはずっと外野で、5年生になるとバッティングのコツを掴んできた。脚も速かったし、肩も強かった。背も高かった。

しかし、とんでもなく守備が下手だった。

この頃がパワーヒッターで、尚且つ脚が早かったので、

「自分はホームランが打てて脚が速い」

という勘違いがこの時に生まれる。
この話は次回以降にしようと思う。


打てていたし脚も速かったから、6年生に上がったら試合に出れるもんだと思っていた。


しかし現実は違った。6年生に上がるとAチームには入ったものの、試合に出ることはなかった。

スタメンで、ということではなく、公式戦も練習試合もずっと三塁コーチャーをやっていた。本当につまらなかった。それでも母親は試合を見にくるからそれもとても嫌だった。背が一番高いのに試合に出ていないことがとても恥ずかしくて、よく膝に手をついていた。

少年野球を始めてから一番試合に出ていないのが6年生の頃だと思う。

公式戦は100歩譲って、練習試合は出して欲しかった。代打や代走でも使ってくれることはほとんどなかった。感覚的に3試合くらい、おなさけ代打で出してもらったことがある。


自分は指導者から嫌われていたと思う。

チームのエースが制球に苦しみ、新しくピッチャーを作ることになった時、トーナメント式のような形でコントロールがいい人が最後まで残っていくというものだった。

その日始めてピッチャーをやったが、ピッチングはとてもまとまっていた。肩が強かったのでボールもそこそこ強かったのではないかと思う。

コントロールが安定していたため、最終的には自分ともう一人が残った。

その2人になった時点でもう1人の彼がピッチャーになることが決まった。納得できるわけがなかった。


その時から自分は指導者に嫌われているんだと思うようになった。試合にも出させてもらえなかったこともあって疑惑は確信に変わりつつあった。


このように野球の練習だけして試合で野球をプレーすることのなかった自分だが、本気でプロ野球選手になりたかった。

そして、中学に上がる前に母親が「プロ野球選手になる方法」を教えてくれた。

その方法とは…


「いい高校に入ること」

だった。



次回、中学野球編につづく。

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