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僕は1番下手だったから努力を続けた / 高校1年生編


スパイダーマン🕷
「シューッ(糸の出る音)」

ふざけました。すみません。ツーアウト🤘


瀬谷シニアに在籍した3年間で試合に出たのは5〜6試合程度で通算15打席で3安打ほどで、公式戦出場はもちろんゼロ。チームで1番下手だった自分は神奈川県の私立「藤嶺学園藤沢高校」に推薦で合格した。と言ってももちろん勉強の方の推薦で。


藤嶺藤沢は今でこそ全面人工芝のグラウンドだが、自分が入学した当時は全面土のグラウンドだった。

瀬谷シニアの先輩方は、「高校よりシニアの時の方がきつかった」という方が多かったらしい。そうコーチが教えてくれた。

それくらいに大変な中学3年間であった。

高校に合流してからも他の人よりは早く走れたし、体力的には限界まで少しのゆとりがあった。

藤嶺藤沢にはいろいろなルールがあった。

藤嶺藤沢には当時、「一年生ルール」なるものがあり、ランシューは白か黒基調、エレベーターとエスカレーター禁止、電車で座るの禁止、イヤホン禁止、などさまざまな制限があった。

一年生ルールは後に自分らの一つ上の先輩たちが新チームに変わるタイミングで廃止にした。


他にもテストで赤点を一つでも取った「五厘刈り」にするというのもあった。他にも何かトラブルがあれば先輩や指導者から命じられて五厘になることもあった。


他にも先輩たちより先にお昼を食べる時などは先輩たちに聞こえる声で

「お先に失礼します!いただきます!」

と大きな声で叫んだ。これと、帰るときに言う「お先に失礼します」は社会人になった今でも活かされているなと思う。


練習で1番きつかったのはアメリカンノックだった。だいたい1時間から長い時で2時間以上、水分補給無しで続くスーパー根性練習だった。

ルールはどんな球もノーバウンドで捕球すること。
そして、捕れなかったら全員でジャンプ10回やバーピージャンプ10回と言う罰ゲーム付き。

では、ノーバウンドで捕れない様な打球が来た時はどうするのかというと、「飛び込んで気合いをみせる」ことで罰ゲームを回避できる。

自分はエラーなどをして連帯責任で罰ゲームがある練習は大嫌いで、自分が下手なせいで先輩やチームメイトを巻き込むのがものすごく苦痛だった。そんな性格だからイップスにもなるのだが。

平凡なフライや、平凡なゴロもポロポロするレベルだから自分のミスでみんなをジャンプさせてしまったし、「お前ちゃんとやれよ」と先輩に怒られたこともあった。

だから周りに迷惑をかけたくなくて一生懸命ボールを追いかけたし、際どい打球は全て飛び込んだ。

アメリカンノックが嫌なのは喉も渇いて心肺機能も体力も限界に追い込まれるのもきついが、何より飛び込むたびに体にできた傷がとにかく痛かった。かさぶたになっても次に飛び込んだらまたそれが剥がれて…その繰り返しだった。

体力的には余裕があったが精神的にきつかった。それにその身体のキズがとにかく痛かった。


もちろんBチームの試合だったけれど、試合に出させてもらった。シニアの時も高校1年生の時など、レベルの高いカテゴリーに行っても1番下手だった自分が試合に出させてもらったということを踏まえて

やはり少年野球の時は嫌われていたのだろうなと思う。

高1の初打席でセンター前ヒットを打った。そしてそれが高1のシーズンで最初で最後のヒットになった。


高校野球といえば夏の大会である。高校に入って初めての夏を控えた6月ごろ。夏の大会のベンチ入りメンバーの発表があった。そこでの発表は暫定のものであり、まだ確定では無い。

と言いつつほぼ確定なのだが。

そこでメンバーには入れなかった3年生は、任意引退という形で受験勉強に専念するか、チームに残って最後の可能性にかけて練習するか、はたまたチームのサポートにまわるか、という選択を強いられる。

「あぁ、高校野球ってこう言う世界なんだな」とテレビで活躍する球児の裏にはこうやってメンバーから外れてしまった3年生の姿があるのだなと思った。


そして記憶が正しければ、学校にある宿泊施設でメンバーと3年生だけ、合宿生活が始まったはず。


その頃、1年生係の先輩たちから「これからの練習は常軌を逸した雰囲気だし、先輩たちも指導者もピリピリし出すから気をつけろよ」とミーティングで話があった。

な、なんだそれ。怖いな。


次の日の練習からそれは始まった。
6月と言ってもそこそこ暑い。グラウンドコートを着てランニングとアップを済ませてキャッチボールが始まろうとしていた。

「なんだ、常軌を逸する風景ってコートを着てアップをするってことか。確かに大変そうだなぁ」

と思った次の瞬間、先輩たちはグラウンドで横になりユニフォームをドロドロにしていた。
そして手で砂をかき集めて、汗のかいた顔に砂を塗っていた。


空いた口が塞がらないとはこのことで、自分はとんでもない高校に来てしまったと、この時初めて思った。


夏の大会は藤嶺藤沢の選手が藤沢八部球場の補助員を毎年やることになっていたので、3年生の夏は見ることなく1回戦で敗退してしまった。

それから新チームの練習は地獄のような日々だったように思う。しかしあっという間に時間は過ぎて、100周年記念事業でグラウンドの全面人工芝化工事が始まったり、監督が変わったりとバタバタとしていた覚えがある。

結局、試合には20打席くらい立てたのだろうか。高校1年生の1年間で中学3年間の打席数は確実に越えた。


そして時は流れて冬が明けて、あっという間に新入生が入ってきた。

高校2年生で自分の野球人生は大きな転機を迎えることになる…


次回、高校2年生編に続く。

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