【サクリファイス】5話

 僕が望んでいたのは役者の生活ではなく、画家としての人生だったのだ。さほど有名になれなくてもいいから、絵を描きながらひっそりと暮らせればそれで良かった。ただ、一つ贅沢を言うなら、いつか教会の天井一面に自由に筆を走らせてみたかった。

 ……ボクは……悪魔なんです。

 ロランの言葉が、蘇る。今、考えればあの言葉で、気付くべきだった。
 彼が、何故人との接触を控えてきたのか。何故、あんなに怯えていたのか。

 三日後、僕は高熱に倒れた。

 朦朧とした意識の中、団長の罵倒する声や団員達の叫び声が聞こえ、ロランの「ごめんなさい」との謝罪が耳に残った。時々目を覚ますと、視界に映る自分の腕に黒い痣の様な跡が映り、それは徐々に広がっているかに見えた。
 ペストだ、と認識した。
 苦しくて咳き込めば、口元を抑えた掌やベッドの上に、血液が広がった。
 何度目かは記憶に無いが、それでも何度も目を覚まさないうちに、僕のベッドの脇にパンとワインの投げ込まれた籠と、ダミアンが見せてくれた銀のカップが置かれていた。当然に、劇場から人の気配は消えていた。
 それは紛れもなく、独りで死ね。との意味であった。
 ペストは、元々クマネズミ等の齧歯類に流行する病気で、菌に感染したクマネズミ等の血を吸ったケオブスネズミノミ等が人間の血を吸った際、その刺し口から菌が侵入する事で感染する病気だ。他に、ペスト患者からの感染もあるが、このノミが人にくっつき、人を使って広い範囲に被害を齎したと言われている。だが、当時のヨーロッパの街は余りにも不潔で、ノミや害虫は人の身体から生まれると信じられていた時代だった。そして、当時の人々の中に、ペストの原因を解明しようとする者はいなかった。それだけ、恐れられていたのだ。結果、感染の原因がはっきりするまで、相当な時間を要した。
 ペストに侵された街中を逃げ回ってきたロランが、ペストノミを身体に付けていたと今なら容易に想定出来るが、当時の僕は当時の世間常識程度にしか知識が無かった為、ロランが魔術を使ったと思考した。そう、ロランの言った悪魔の単語をそのまま捉え、僕は生贄にされたのだと思ったのだ。きっと、ロランがこの先も生き延びる為の、魔術の生贄だろうと。
 本当に、今思えば恥ずかしい程に無知故の情けない考えだった。
 死を待つ間、僕はロランを呪っていた。けれど、暫くして、そんな自分の愚かさに涙が溢れた。生きている間は、それが苦痛でならなかったのに、いざ死を前にしてみれば、こうして死を齎した人間を呪うのだから。本当に、僕はなんて都合の良い人間なんだろうかと。
 いつ、どのタイミングで自分が死ぬかは解らない。高熱に魘され、目が覚めた時に生きていたら、安心と不安と絶望を繰り返すだけだった。時間の経過も解らなかった。ただ酷く喉が渇いたため、ワインはあっという間に無くなってしまった。
 夢か幻覚だったかは未だにはっきりしないが、僕はその時、子供の頃の忘れていた記憶を見ていた。
 僕が十歳にも満たない幼い頃、旅の絵描きが村に来た。ソバッカスと一緒に遊んでいる時だった。その絵描きは僕を見て、僕の絵を描きたいと言った。僕は、母に内緒でソバッカスと一緒の絵だったらいいと答えた。
 その絵描きは、鞄の中からオークの板を取り出すと、そこに僕とソバッカスを描き始めた。いつも母が絵を描いて貰っている姿は見ていたけれど、自分が描いて貰うのは初めてだったから、本当にわくわくした。ソバッカスは、終始照れているようだった。
 やがて、スケッチが出来上がり、絵描きは僕達にその絵を見せてくれた。簡単な下絵しかなかったのだが、繊細で綺麗な絵だった。その絵は、背中に鳥のような羽根の生えた天使の絵だったのだが、その天使が僕とソバッカスだったのだ。僕は、その絵の中に限りない自由を魅た。
 絵描きは、この絵を完成させるために自分の家に帰ると言った。ずっと、この天使のモデルを探して旅をしていたんだと言っていた。だから、僕はその前に、絵を教えて欲しいと頼んだ。
 絵描きは、モデルのお礼だと言って、持っていたオークの板を三枚と、ひとかけらの木炭をくれた。それらを僕は、母に見つからないよう自分のベッドの下にこっそりと隠した。
 最初はオークの木の板になんとか絵を描こうと試みたものの、初めてにして上手く描けるはずもなく、結局は無駄にしてしまった。それからは、石を使って地面に絵を描いた。毎日夢中で、本当に楽しかった。
 ソバッカスが魔女狩りで連れて行かれる少し前、僕は幼い頃から大事にしていた二枚目のオークの板に、ソバッカスの絵を描いて彼女にプレゼントした。ソバッカスは、本当に喜んでいた。三枚目のオークの板は、使われることが無かった。
 今思えば、ソバッカスはいつも隣にいた。明るくて優しい娘だった。彼女だったら、ペストに侵された自分を見捨てたりしなかったのだろうか。
 不意に現実に返り、いつも枕元に置いてある銀のロザリオに手を伸ばした。ソバッカスの形見だった。そして、思う。絵を描こうと。
 咳き込んだ際に吐き出した血液をダミアンの銀のカップで受け、それを指先に付けると木の床に赤い線を引いた。
 久しぶりに、楽しかった。死の恐怖も苦しみも忘れて、自分の血糊を絵の具に、床に絵を描いた。どうせなら大きな絵を描こうと張り切った。熱で頭がおかしくなっていたから、ちゃんと描けていたかも何を描いていたかも全く解らないが、全てから開放された気分だったのは確かだ。
 僕は自由だ。人形なんかじゃない。もう、繋がれる事もない。その全てを、床にぶつけた。
 描いて描いて描いて……描きまくる僕に完成は無かった。完成など、考えてもいなかった。血糊が無くなると、僕の肺は絵の具を提供してくれた。
 いよいよ身体が動かなくなってきた時、ふと人の気配に気が付いた。僕を見下ろすように、赤いドレスの女性が僕を見下ろしていたのだ。
「……ソバッカス……」
 彼女が、迎えに来てくれたのだと確信した。ありがとう、と目を閉じた僕の唇に彼女はキスをした。
「美しい薔薇」
 ソバッカスのキスは、生暖かい鉄の味がした。乾いた喉を潤すように、どくどくと流れ込むそれは、優しくも感じた。
 時々咳き込む僕の背中を摩りながら、彼女は僕に永遠とも思えるキスをし続けた。人の温もりを感じるのは、どのくらい振りだろうか。冷たかった母親も、僕が絵を描くまでは時々おぶってくれた様に思う。あの時の温かさに似ている。
 子供の頃に戻った気がした。とても、幸せだった。
「さあ、ゆっくりとおやすみなさい。そして、あなたは生まれ変われる。あなたは、選ばれた人。美しい薔薇」
 ソバッカスの唇が僕の唇から離れ、彼女が子守唄でも歌うように優しく告げた。ペストによる身体の痛みも、呼吸の苦しさも徐々に楽になるように思えた。いよいよ、僕は死ぬのだ。
 人の死とは、なんと安らかなモノだろう。
 こんなに気分のいいモノなら、もっと早く死ねばよかったとさえ思ったくらいだ。
 身体中の力が抜け落ち、僕の意識は真っ暗な闇の中に吸い込まれていった。

 デカメロンという著書にて、ボッカチオは当時の様子をこう記述している。『毎日毎日、棺桶と死体が運ばれてくる。全ての教会では朝に夕に、夜通し弔いの鐘が鳴り響いた。しかし、まもなく棺桶に付き添って泣く者はいなくなり、墓地は郊外に見捨てられ、弔いの鐘も鳴らす者もいなくなった。』と。
 教会の墓地には深い溝が掘られ、その中に運ばれてきた何百という死体が投げ込まれるだけだった。どの死体置き場も、やがて死体で溢れ返る。
 遺体を埋葬しようとする者はいなくなり、孤独に息を引き取った病人は、そのまま朽ち果てるしかなかった。

※参考資料:不思議館:http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/index.html

こんにちは。
いつも、サクリファイスをお読みくださり、本当にありがとうございます。
今回は、本編に頻繁に出てくるも、作中で解説できなかった“魔女狩り”について、簡単にお話させて頂きたいと思います。
魔女狩りとは、十二世紀の異端審問をはじめに十五世紀に入ってから本格的に始まった迫害のことです。
異端審問とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ疑いを受けた者を裁判する為に設けられたシステムのことですが、魔女狩りはこの異端審問の形式を拝借しつつも、性格上は異なったものです。ですから、この異端審問を元に魔女狩りが生まれたと考えてくだされば解り易いかも知れません。
この魔女狩り、十六世紀から十七世紀にかけてが一番の最盛期となり、十八世紀まで続いたと言われています。結果、四万人から六万人が犠牲になったとされています。
史実上の事例をみれば、その多くは社会不満に対する集団ヒステリーであるものの、例えば病気になったとか転んだとか、その程度でも魔女の妖術のせいだと理由をつけ、訴えられた者は拷問によって取り調べをされたといいます。拷問により命を落とした者も多く、又有罪となった者は、殆どが火炙りにされたといいます。(地域によっても違いがあり、斬首や溺死等もあった)
中世における当時は、娯楽が少なく、魔女裁判における公開処刑も民衆の娯楽の一つだったといいますから、なんとも恐ろしい時代です。
日本で言うところの、キリスト教弾圧キリシタン狩りと言ったところでしょうか。ただ、魔女狩りの方がもっと理不尽だったように思われますが……。

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