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18章 きっかけはぎっくり腰

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 まろみの“夢のお告げ”から一週間後。「蔵子さん、例のローゼン(老前)整理ブログの準備は進んでいますか」「なんとか、少しずつね。概要さえきちんと作れば、枝葉はその時に付け加えれば良いし…日名子さんには早く開設してくださいと、せっつかれているけど」「言うだけなら、誰でもできる!」と、まろみは声を張り上げた。
「ふむ、わたしなら『言うは易く、行うは難し』と言うけど」
「ジェネレーションギャップですね。はっはっは」
なぜか、まろみは上機嫌である。
「それより、まろみちゃん、来週からの講座の申込書はまとめてくれた?」
「はい、年齢は三八歳から七八歳まで。受講の動機は、ものを片付けたいのが一番多くて。
娘夫婦と同居のためマンションに引っ越すので、一戸建ての荷物を片付けたい、という方が一名。変わりダネでは、ぎっくり腰というのがあります」
「どういうこと?」
「それが、“ぎっくり腰”としか書いてないのです。片付けようとして、物を持ち上げたら、ぎっくり腰になったということですかね」
「それなら、病院へ行くでしょう」
「ぎっくり腰になったから、片付けて欲しいとか…」
「それなら、講座に参加するより、片付けの依頼だし、講座が始まったら、意味がわかるでしょう」
 受講の動機に、「ぎっくり腰」と書いた献策多津代は、講座の初めの自己紹介で、八ヶ月前に商社を定年退職し、現在は休職中で、のんびりしているとのことだった。

 多津代は二ケ月前に、ベランダのガジュマルの植木鉢を動かそうとしてぎっくり腰になった。それだけならまだしも、よろけた拍子に右足首をくじいた。 
 あまりの痛さにすぐには動けず、三〇分ほどして、這うようにしてベッドに倒れこんだ。
気がつくと、足首が倍くらいにはれ上がって、ゾウの足のようになった。
冷蔵庫まで四つん這いでたどりつき、氷で足首を冷やした。
病院へ行けば良いのはわかっているが、まともに歩けそうもない。
かといって、救急車を呼ぶほどでもないので、とりあえず横になっていることにした。

勤めている頃なら、明日の仕事の心配をするところだが、退職してその心配をしないで済むのがありがたかった。
その夜はカップラーメンとスナック菓子食べた。

次の日も、病状は変わらず、テレビを見て、非常食の乾パンや缶詰を食べた。
たまたま、ぎっくり腰になった日に買い物に行くつもりで、冷蔵庫に食料がなかったのである。

勤めている時は、週に一度大量に食料を買い込んでいた。
仕事を辞めてからは、毎日散歩がてらスーパーへ行くので、チラシの安売り広告を見て、その日の献立を決めていた。
つまり、その日に食べるものだけしか買っていなかった。

 マンションの隣人たちとは、近所付き合いが煩わしいと思っていたので、挨拶をする程度で避けていた。
三日目になると、さすがに不安になった。
そして、三日間、多津代のスマホに友人から電話もメールも来なかった。
会社に勤めていれば、同僚から電話やメールが入っただろうが、退職するとパタッと止まる。これも、不安に拍車をかけた。

このまま、誰にも気づかれずに餓死するのではないだろうかと思った。
ようやく、出前を頼めばよいと気が付き、ピザを頼んだ。
 ピザを頼むなど、多津代には初めての経験だった。

 両親と暮らしている頃には、来客のために寿司やラーメンの出前を頼むことはあった。
 四〇になった年に今のマンションを手に入れ、ひとり暮らしになった。
ひとり分の寿司や出前を頼むのは気が引け、また、来客もなかったので、出前や宅配という考えが浮かばなかったのである。そして出前をしてくれるような店は姿を消していった。

ピザばかりでは飽きるし、三人前の寿司、ラーメンと餃子など店屋物が続くと、野菜や煮物、焼き魚に豆腐の味噌汁など、普通の食事が恋しくなる。

 多津代は、自分の友達の少なさに驚いた。
会社に勤めている時は、後輩と飲みに行ったり、映画を見たりと、遊ぶのに困らなかった。
しかし、今は、どこからも誘いの言葉がないし、倒れていても誰も知らない。
 学生時代の友人ともご無沙汰で、こんな時だけ来てくれとも頼みにくい。
携帯のアドレス帳にはこんなに名前があるのに、誰にも助けを求められない。
 頼めないのはご無沙汰ばかりではなかった。部屋の中が足の踏み場もないほど散らかっているのである。

食料を買ってきてと頼んでも、玄関で“はい、さようなら“という訳にはいかないし、たぶん料理もすると言ってくれるだろう。そうすると…このありさまだ。

 腰が痛くて物を持ったり、運ぶなどとてもできないので片付けなどおぼつかない。
退職して、整理整頓をして心地良い部屋にしようとは思いつつ、“そのうちに”で日がたってしまった。自分の「見栄」が助けを求められない原因だとは分かっていても、どうにもならなかった。
 
 ようやく考え付いたのが、なんでも屋に食料や弁当を買ってきてもらうのである。これなら、家の中の惨状を見られない。
 今、流行りのなんとかという自転車で配達するところには頼まない。ビジネスライクで気軽ではあるが、どこの誰だかわからない人間が持ってきた食べ物はこわい。それに住所も電話番号も女性のひとり暮らしだという個人情報をさらしている。

 スーパーのサイトでネット注文も試したが、配達時間に幅があるのが困った。ピンポンが鳴ってから玄関に行くまでかなり時間がかかる。かといって玄関で数時間荷物を待っているわけにはいかない。マンションに宅配ボックスもない。
 何でも屋ならこういう心配はしなくても済む。長年駅前に店を構えているし、トラブルがあった時は、対処してもらえる。個人情報は漏らさない。(と思いたい)

 多津代がタクシーで病院へ行ったのは、ぎっくり腰から五日後だった。
医師にどうしてもっと早く来なかったのかと訊かれたが、歩けなかったのでと答えた。
 病院からタクシーでスーパーへ行き、食品や日用品を買って、タクシーでマンションへもどった。荷物はタクシーの運転手が部屋の前まで運んでくれた。

 部屋の惨状はますますひどくなり、憂鬱になった。
 仕事も無い、友達も無い、汚部屋にひとり。
ソファーに横になり天井を見つめていると、涙があふれてきた。
これからどうすればいいのか。
 地震にでもなれば、家の中がひっくり返っていても当たり前なのに。 そんなことを考えるとおかしくなって、涙を流しながら笑った。
 笑うと腰に響いて、また涙が出た。

 涙が枯れるとお腹がすくのはなぜだろうと思いながら、おそるおそる台所に立った。
 飯を炊き、味噌汁をつくり、スーパーで買ったヒラメの刺身といんげんの胡麻よごしを皿に盛った。
 普通の食事がなぜこんなにおいしいのかと思った。久しぶりにシャワーを浴びると、生き返ったような気になり、その夜はぐっすり眠った。
 多津代は次の日もぼんやりと一日を過ごした。

 こんなはずではなかったのに、なぜこうなったのか。困った時に相談できる友人もいない。
ということは、そういう友人をつくらなかったから、というか、つくれなかったから。
 不倫の相手は友達にはなれないし、時がたてば赤の他人である。人間はひとりでは生きていけないと言うけれど、わたしは今ひとりなのだと思った。

 今まで、なぜそのことに気付かなかったのだろう。いや、気付きたくなかったのだろうか。
そして、これからもひとりで生きていくのか。

 どうすればいいのか、何も考えられず、ぼーっとテレビを見ていた。
お宅拝見番組で、若い女性のお笑いタレントの家をレポーターが見て回る。
大きなマンションではないが、きちんと片付いている。

 わたしだって、テレビが取材に来るなら、これくらいきれいに片付けるのにと思った。
 そこでハッと気がついた。ほんとに自分は取材が来るなら片付けられるのだろうか。
 会社でファイリングは得意だった。
 社内ではきれい好きできっちりした人と思われていた。なのに、自分の部屋はぐちゃぐちゃ。
今までに、あのタレントのマンションほどきれいに片付けたことがあっただろうか。

いつも、やればできると思いながらやらなかったのではないか。会社ではできたのに、家ではできないのはなぜか…思い当たるのは人の目だった。
 会社ではだらしのない人に見られたくない。能率よく働き、仕事ができるように見られたい。家では誰にも見られない。つまりわたしは人の目がなくては片付けられないのだろうか。
その夜は悶々として過ごした。

 夜眠れなかったので、十一時まで朝寝をして、トーストとコーヒーの食事を済ませた多津代は、またぼんやりとテレビを見ていた。
テレビを見たいというより、静かでエアコンの音しかしない部屋にいるのがいやだったからだ。
 ペットフ―ドのコマーシャルを見ながら、こんな時、犬か猫でもペットがいれば、気を紛らわしてくれるかもしれないのにと思ったが、このマンションはペット禁止だったことを思い出した。

 このまま年を取ったらどうなるのだろうと考えるだけでおぞましい気がした。
でも、なんとかしなければいけない、今なら間に合う。
 もう一度、友達を作ろう。人の呼べる部屋にしよう。
ぎっくり腰と捻挫が治ったら、部屋を片付けよう。

 気持ちは前向きになったが、長年溜めこんだ諸々のどこから手をつけて良いかわからない。会社のファイリングができたのは、講習を受けたからではないかと気がついて、片付け方がわからないのだから、片付け講座に行けば良いのではないか。
 パソコンで検索して、「新わくわく片付け講座」を見つけた。
こうして、多津代は講座に参加したのだった。

 講座の中で、「これからどういう暮らしがしたいか」について悩み、自分の年表を書いて、学生時代の記憶が蘇った。
 高校時代は美術部で絵を描き、芸大に進みたいと思ったが、絵を描いて食べていけるほどの才能がないことはわかっていたし、親にも反対され諦めた。
それ以来、筆を持つことはなかった。
 今さら画家になりたいとは思わないが、絵を描くことにもう一度挑戦してみたい。
インターネットで調べてみると、通信教育で芸術大学に入学できることがわかり、これだと思った。今は物置になっている部屋をアトリエにしよう。

絵を描くのに、会社員時代に着ていたしゃれた洋服は必要ない。
もう一度、学生に戻ってデッサンからやり直してみよう。それから先のことは、その時考えればいい。一瞬にして、自分に必用なものと不要なものがわかった。

不要なものを捨てると、多津代の部屋はきれいに片付き、アトリエができた。
また、講座に参加したことで同じようなひとり暮らしの友人もできた。
お互いに片付かない時は手伝おうという約束もした。

 マンションの窓から見える夕陽がとてもきれいに見えた。

18章 終

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