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28章 ほっとけ!

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 朝から宅配便とは、こんなもの誰が頼んだのかと見れば妻だ。
明夫は玄関の大きな段ボールを前にため息をついた。
そこへ、珍しく念入りに化粧をした妻の君子が二階から降りてきた。

「間に合ってよかった」
「何だよ、これは」
「衣装ケース。恵一のところへ持って行きます」
「恵一が頼んだのか」
「いえ、わたしです」
「あのな、四十過ぎた息子のマンションなんか掃除するな」
「だって、あの子は仕事が忙しいから…」
「それに息子のマションに行くのに、どうしてそんな恰好をしてるんだ」
「それって、やきもちとか? 恵一のマンションに出入りするのに、汚い恰好をしてたら、恵一が笑われるでしょう」
「芸能人じゃあるまいし、だれもそんなこと気にしてないさ」
「あなた、ご近所の噂をバカにしたらとんでもないことになるのよ」
「とんでもないこととはどんなことだ、言ってみろ」
「そんなこといちいち説明しなきゃわかんないのですか、これだから男はわかっていないのよ」

明夫はウウウとうなり、腕を組んで考え込んだ。
本当に息子のところへ行っているかどうか怪しい。
「時間がないんです、ここでぐだぐだ言うのはやめてくださいよ」
息子のいないマンションに行くのに、なぜこんなに時間を気にする? 
「おれも行く」
 明夫はジャージにジャンバーをひっかけて車のカギと財布と携帯をポケットに入れた。
君子はそんなかっこうでと言いかけてやめた。
どうせあれこれ言ったところで、聞くような人ではない。
不毛な言い争いにはくたびれた。

 明夫は息子のマンションに行くのは何年ぶりか思い出せなかった。
たぶん、独身寮から引っ越した時以来だ。
車の中では会話も音楽もなかった。

マンションのロビーで君子は管理人におはようございますと元気に挨拶をした。
段ボールの箱を抱えた明夫は申し訳程度に頭を下げた。
管理人が明夫を無視して、そうそう、奥さん、息子さんに荷物が届いていますよと声をかけた。
「いつも、お世話になります。いただいていきます」
君子はにこやかに答えた。
管理人と妻との会話を無視して明夫はエレベーターを待った。
君子は封筒を手に明夫に並んだ。

 二人は無言のまま五階でエレベーターを降り、恵一の部屋へと向かった。
君子がカギを開け、ドアを大きく開いた。箱を抱えた明夫が玄関から入っていく。
後に続く君子が、電気をつけますからちょっと待ってくださいねと声をかけるが明夫は止まらない。
暗い廊下を抜け、肩でドアを押し開けてリビングの床に箱を置いた。

 君子が明かりをつけた。
立ったまま部屋を見回した明夫は何にもない部屋だなとつぶやいた。
リビングには大きなテレビとアームチェアが一脚。ダイニングのコーナーにはテーブルとイスが二脚。
「まるでビジネスホテルの部屋みたいだな」
明夫の非難するような言葉に君子は返した。
「あの子は昔からきれい好きで、誰かさんのようにモノを溜め込みませんから」
「おれはそんなに溜め込んではいないさ。それに恵一だって、押入れの中とか洋服箪笥に詰め込んでるだろ。扉を開ければ汚れた洗濯物がダダっと落ちてくるかもしれん。しかし、いくら親子だといってそんなことはできないからな」
「恵一はあなたとは違います。どこでもあけて見てごらんなさい。きれいなものです」

妻の言葉にかっとした明夫は、押入れ、クロゼット、食器棚と、扉という扉を開けて回った。
 すべての棚や引き出しに、きちんとモノがおさめられていた。
「どうせ、おまえが片づけに来ているからだろ」
「違いますよ。あの子は…」と言いかけて君子は口をつぐんだ。
「言いかけて途中でやめるな」

怒鳴る明夫の頭の中では、これはなにかおかしい、この部屋の掃除にどうして毎日通う必要がある。管理人との密会なのではないかという疑惑が渦巻いた。
あんな男のどこがいい? おれより年上の爺じゃないか。

 夫の剣幕にあきれて君子が後ずさると、明夫はつかみかかろうと…したとたんに、めまいがして気を失った。

 明夫が目を覚ますと、恵一が折りたたみの椅子に座って雑誌を読んでいた。
「ここはどこだ」
「病院だよ」
「なんでおれが病院に・・・」
「頭に血がのぼって、ぶっ倒れたんだ。心配させるなよな」
部屋の中を見回す明夫に恵一は笑いながら答えた。
「かあさんは着替えや入院に必要なものを取りに帰った」

 すっきりした個室にはテレビや冷蔵庫はもちろん、シャワー室やトイレまであった。
「おれはもうダメなのか。恵一、本当のことを教えてくれ」
君子に似た細い目で恵一は笑った。
「たいしたことないらしいよ。そうでなければ、点滴とか、機械のモニターとかいろいろくっついてるはずだから、ね、なにもないだろ」
「ほんとうか」
ああ、とうなずく恵一にますます疑問がわいた。もう手遅れだから、何もしないのではないか。たいしたことがなければわざわざ忙しい息子を君子が呼ぶはずはない。

「退職して、健康診断も受けてないようだから、ついでにあちこち検査してもらうことになったみたいだよ」
息子の言葉が遠くに聞こえた。
どうしてそんなことを勝手に決めてしまうのか。いったい誰の身体だと思っているんだ。
「母さんも心配してたよ」
本当だろうか…そういえば…息子のマンションの管理人のことを思い出した。
そもそもホテルのような息子の部屋になぜ度々掃除を口実に通うのか。
このことを恵一は知っているのだろうか。どうすればうまく聞き出せるだろう。

「恵一、そろそろいい人でもできたか」
「はぁ、突然どうしたのさ、頭は打ってないはずだけど…」
「いや、五年くらい前にかあさんが、恵一に早くお嫁さんを貰わないと、大変なことになるって騒いだことがあるだろう」
「ああ、次々と見合いの話を持ってきた」と恵一は当時を思い出して苦笑した。
「おれはね、恵一も子供じゃないのだから、相手ぐらい自分で見つけるから、ほっとけと言ったのさ」

 当時、君子は恵一の嫁さがしに奔走していた。
度々見合いのセッティングもしたが、まとまらなかった。
そのうち、親同士の見合いの会などというものにまで行きだしたので、明夫がいい加減にしろと一喝した。
「あなたは恵一のことがかわいくないから、そんなことをいうのよ」
君子が泣きながら訴えたが、明夫は取り合わなかった。

 あれから何年がたっただろうか。
相変わらず独り者の息子を思うと、君子の行動もまんざら間違ってなかったのではないかと思う。
孫の顔を見られないのかとも思う。目の前の息子も若くはない。
そしておれも…。

「かあさんから話しといてくれと頼まれたんだ」
明夫の思考を遮るように恵一が話し始めた。
「かあさんは、とうさんが何でも溜め込むことに我慢していたらしい」
それはおまえ、という明夫の言葉に恵一は黙って聞けよと返した。
「山のような本は、また読むからと積んである。壊れたラジオやトースターまで修理するからと云うばかりで、そのままだ。かあさんが捨てようとすれば怒る。そのうちゴミ屋敷になるかもしれないと思ったかあさんは老前整理とかいう片づけ講座に行って、講師に相談したんだって」
家の中のことをなぜあかの他人に相談しなければならないのだ。べらべらと、これだから女は困る。恵一もそれぐらいのことがわからないのだろうか。

「その講師が何と答えたと思う?」
恵一は明夫の顔を覗き込むように訊いた。
「おれにわかるわけがないだろう。そもそもそんなことをなぜ相談しないといけないのだ。
どうして自分の家のことで他人にあれこれ指図されなきゃならない」
やっぱりな、という顔で恵一は苦笑しながら答えた。
「ほっとけ」
予想外の答えに、明夫はことばを呑み込んだ。
「夫がどうのこうのより、まず自分の身の回りの整理から始めなさい。自分がこれからどう生きたいか、暮らしたいかを考えなさい。だってさ」
薄いかけ布団の下の明夫の胸が呼吸で大きく上下しているのがわかる。
「おれはね、かあさんが熟年離婚を考えているのかと思った。それに離婚して困るのはかあさんじゃなく、とうさんだと思うから」

「り、離婚だとぉ…」言葉が続かなった。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「おれは心配なんかしてない」
口とは裏腹に心臓がドクドクしているのが感じられる。
「あっそう、じゃあこれ以上話す必要はなさそうだから、おれ帰るわ」
コートと雑誌を手にしてドアへ向かう恵一にちょっと待てと、明夫が手を伸ばした。
仕方ないという顔で、明夫はまた折りたたみの椅子に座りなおした。
「ちゃんと説明してくれ」
「だから、うちがゴミ屋敷になる前にかあさんはなんとかしようとした。だけど、とうさんは相変わらずガラクタを増やすだけで捨てない。かあさんにとってはそれほど深刻な問題だということさ」
「さっぱり、わからん」
「そうだろう。だから、とうさんのことはほっといて、自分のやりたいことを考えたんだって」
「ま、まさか、あの管理人と…」
「管理人? なんのこと?」
いや、まあいい、続けてくれと明夫は視線を逸らした。
「かあさんも何か趣味が持ちたいと思って、絵手紙を始めたのは覚えてる?」
そういえばそんなこともあったかと、明夫はうなずいた。
「かあさんがリンゴを描いてるのに、トマトと言ったんだって」
「言ったかな? 覚えてないな」
「そうなんだよね。言った方は軽い気持ちだからすぐ忘れる。だけど言われた方は覚えているんだ」
息子の射るような視線に明夫は目をそらした。
「かあさん、それで絵手紙やめたんだよ」
明夫にとっても意外だった、そんなことぐらいで…。
「で、かあさんはいろいろ考えた。とうさんの目の届かないところでやりたいことをやろうって、通信教育で絵本を描く勉強を始めたんだ。それもおれの名前で」

恵一は立ち上がり、狭い部屋を歩き回りながら語った。
「また、とうさんに見られて、からかわれるのがいやだって。だから、おれの名前で課題を出す。もちろん住所もおれのマンション。そこで添削で返ってきた課題を受け取る。
アドバイスをもとにおれのマンションで課題をする。つまりかあさんの勉強部屋だったわけさ」
明夫にはやはり理解できなかった。
「ま、いいんじゃない。かあさんもやりたいことをしてるし、ほっとけば。ああ、もうこんな時間だ、仕事が残っているから。そうそう、とうさん鼻毛が伸びてるからなんとかしろよ」
恵一はバタバタと病室をあとにした。

母親も母親なら、息子も息子だ。
ふつうは無理せず養生してくださいとか言うものだろうが。それを、鼻毛だと、ばかばかしい。どこも悪くないのなら、寝ているのも癪だ。

 地下の売店へ行った明夫は財布がないのに気が付いた。
しかたないと新聞の見出しを横目で見ていると、横の公衆電話でジャンバー姿の男が電話をかけていた。
「こっちは6時頃に出られるから…葬儀屋は○○が手配してくれる…よろしく…」
 誰かが亡くなったようだ。男は待合室の男女のところに戻った。
意図せず、うしろについていく格好になった明夫の耳に、会話が聞こえた。
「それで、葬式が終わったら、お母さんのあの家どうなるの?」
「そりゃあ、誰かが片づけないといかんだろうが」
「そうだな、売るにしても、なんとかせんと」
「だれがするのよ。またわたしに押し付けないでね。介護だって手伝ってくれなかったんだから、兄さんたちが片づけて。わたしはお母さんの形見に珊瑚と翡翠と鼈甲の帯どめと金の大黒様の置物だけでいいから」
「おい、あの大黒様はうちがもらうことになっている。おふくろとも約束してた」
「そんなはずないわよ。あれは、看病してくれた杏子にあげるってお母さんが…」
「おまえらなあ、これから葬式って時に、そんな話をするな」
 明夫は三人がいるソファーの後ろに座り、テレビを見るふりをしながら耳をそばだてた。
「今、話さないと、義姉さんたちにあれこれ言われるもの」
女はふてくされた。

 長男らしき男が、まあまあと二人をなだめた。
「形見分けは葬式のあとの精進落としの時に話し合う。それで納得してもらって、あとはほら、テレビドラマであっただろ、遺品整理をしてくれる人に任せればいい」
「業者に頼むのもどうかなあ、お母さんあちこちに小銭をいれてたし、不動産や株券とか大事な書類がどこにあるかわからないの」
「探したのか?」長男が訊いた。
ええまあと言葉を濁す妹に次男は、杏子は昔から抜け目がなかったよなとつぶやいた。
長男が時計を見て立ち上がった。
「とにかく、まず葬式だ。形見分けが終わったら、業者に片づけを頼む。それでいいな」
「兄さん、その業者の支払いは兄さんが払うのよね」
「そりゃ長男だもの」妹が同調した。

三人がエレベーターに向かうのを明夫はぼんやり見ていた。
あの三人は母親が亡くなって悲しくないのだろうか。しかし、遺品整理とかいう仕事があるのを初めて聞いた。今の世の中では、子供が三人もいても、親の遺品の整理を業者に頼むのか。
そういえば君子が家の中がこのままだったら恵一が困るとか言ってたけれど…あれは、おれが死んだらということか。それでガラクタを片づけろと言ったのか。
 やはり、おれはもう長くはないのだ。
 診察時間が終わった待合室は薄暗かった。
「何だ、こんなところにいたの? 病室にいないから、どこへ行ったのかと思った」
どうして君子はおれにやさしい言葉をかけられないのか、いたわりの気持ちはないのかと思うと素直になれない。
「どこへ行こうと勝手だろ」
「あら、あら、ごきげんななめだわね」
 君子の明るさによけい腹が立った。
「おれのことは、ほっとけって言われたんだろ!」
それってなんのことなのと、君子は紙袋を横に置いて明夫の隣に腰を下ろした。
「だから、ほっといてくれ」
明夫は顔をそむけた。
「あ、そうですか、では着替えはここに置いておきます。保険証も入れてあります。明日は土曜だから検査は月曜になるそうです。それまでせいぜいおとなしくしておいてください。
では、私は帰ります。退院するときはタクシーで帰ってください」

 一度も振り返らずに玄関に向かう妻の後姿を見送りながら、明夫は気がついた。
そういえば、まだ医者にも会っていない。病状の説明も聞いていない。
 看護師の詰め所で尋ねると、担当医は緊急の患者があって、話ができないとのことだった。
それではと、看護師に聞くと、先生に聞いてくださいの一点張り。
いつ終わるのかと聞いても、わかりませんとしか答えない。

 わかりませんならオウムだって言える。
ぶつぶつつぶやきながら部屋に戻った明夫はテレビをつけた。
 グルメ番組の再放送で、タレントがハンバーグを食べる姿に唾がわいた。
次にラーメン、焼き肉と続く。
このままでは夕食までもたないと、引き出しの財布を握って売店に行った。
 おにぎりとメロンパンを買い、新聞を手に取った。

 部屋に戻り、新聞を広げたらなつかしい写真が目に付いた。
ある俳優の訃報だった。
渋いわき役で、残念だと思いながら年を見るとたった二つしか違わない。
もっと年上だったと思っていたが、そうだったのか。
 赤の他人のことなのに、なんだか食欲がなくなり、おにぎりもメロンパンも冷蔵庫に放り込んだ。
テレビをつけても、うるさいだけで面白くない。
病院なのだから注射でも打ちに来ないかと思ったが、看護師の姿も見えない。
暇を持て余しているからと言ってナースコールを押してはいかんよなと、誘惑を払いのける。

 テレビの横の引き出しを開けてみると、入院の手引きと病院の案内があった。
個室、4人部屋、6人部屋と費用が違う。
 この個室はとみると…腰が抜けそうになった。うそだろ!
 なぜこんなに高い。今日、明日、あさっては何もしてもらえない。ここはホテルか。

詰め所でカルテに書き込みをしている看護師に部屋を移りたいと言うと、あの部屋しか空いてませんという素っ気ない返事で、すごすごと部屋へ帰る。
おれのことをケチな貧乏人と思っただろうか。それとも忙しすぎて、そんなこと考える暇もないのだろうか。

この三日間の部屋代くらいで君子と温泉にでも行けるはずだ。そういえば、夫婦で旅行したのは何年前だっただろう。思い出せないくらい昔のことのような気がする。
君子が一時パンフレットを集めていたが、いつの間にかそれもしなくなった。

 廊下にゴロゴロとワゴンを運ぶ音が聞こえたと思ったら、食事ですよという声とともにドアが開いて、トレイが運ばれてきた。
 カレイの煮付けに小松菜のおひたしか。体にはよさそうだが、箸を取る気になれなかった。
 夕食の時に、君子はよくしゃべる。本屋の藤田さんのおじいさんが入院したとか、加茂さんちの孫がもう小学校へ入学したとか…どうでもいいことばかりよくしゃべるなと思いながら聞き流していた。
黙って食べろと叱ったこともある。

 君子は今頃一人で食事をしているのだろうか。それとも…。
 その頃、君子は友人の勝枝を誘ってレストランで伊勢海老ディナーコースを食べていた。
「亭主元気で留守がいいわね」
ワイングラスを傾けながら君子はくつろいでいた。
「でも、お宅の亭主は入院中じゃないの」
苦笑しながら勝枝が訊いた。
「検査入院よ。血圧は少々高め、メタボもあるわね。体重は10キロくらいオーバーかな。
まあ年相応というところで、たいしたことないのよ。息子のマンションで気を失ったのも、朝ご飯抜きだったからなのよ」
本人は自覚してないみたいだけれどねと付け加えて、君子はワインを飲み干した。

 次々に運ばれる料理とワインで二人の顔は上気している。
「やっぱり、コースだとほんと、伊勢海老尽しね。お刺身も焼き物もサラダも絶品だわ」
サラダをほお張りながら勝枝も満足そうだ。
 ワインのお代わりを頼んで、勝枝が訊いた。
「病院には行かなくていいの?」
「本人がほっといてくれって言うのだもの。たまにはいいのよ。それにあの人、私と恵一のマンションの管理人の仲を疑っているみたい。笑っちゃうでしょ」
「冗談じゃなく?」
ほんと、と答える君子の声は心なしかはずんでいた。
 妻が友人と羽を伸ばしているのも知らず、夫はデザートのトマトのゼリーを食べていた。
なぜ、トマトをゼリーにせんといかんのか、トマトは生で冷やして食べるものだろうがとつぶやきながら。

 土曜、日曜と明夫は病室でほとんどテレビを見て過ごした。妻も息子も姿を見せなかった。
時々、気分転換のつもりで廊下を歩くと、見舞いらしい家族とすれ違う。
向こうから歩いてくるのは君子かと思ったが、違った。
他の病室の開け放されたドアから見える様子では、どうも患者は年寄ばかりのようだ。点滴の台をひきずってトイレに行ったり、車いすも多い。
早く検査を済ませて家に帰りたいと思った。 

 検査の日の朝は絶食で水分も摂らないで下さいと言われ、明夫は採血室に行った。
 受付で書類を出して番号札を貰い、ベンチで呼ばれるのを待った。

隣の老人が番号を呼ばれて採血の椅子に座った。ここで看護師に、間違いのないように生年月日と名前を聞かれる。
 男の答えに明夫は愕然とした。おれと同い年じゃないか!!

 胃カメラを飲んだり、ドームの中に入れられたり、心電図にスキャンと、次々と検査を終えた明夫はようやく部屋へ戻った。
ラップがかかったままの冷めた昼食がテーブルの上に置いてあった。
 うがいをしながら、洗面台の鏡で自分の顔をまじまじと見た。
顔色は青黒い、白髪交じりの無精ひげが伸び、髪も寝癖が付いたままである。
君子が見たら、じじむさいから髭を剃れ、櫛で髪をとかせ、チャンと顔を洗え、こぎれいなかっこうをしろとうるさいだろう。
 採血室で見た同い年のあの男とおれも変わらない。
あの男は一人暮らしなのだろうか。
男の身なりにかまってくれる家族はいないのか。
体調が悪いからああなるのか。
 いや、着ているものや髭が伸びているだけじゃない、あの男には生気がないのだ。
鏡の中のおれも同じかもしれない。
自分ではまだまだ若いつもりでいたが…君子も愛想を尽かしたのかもしれない。
あいつは年より若く見える。今日退院するというのに迎えにも来ない。

 荷物をまとめながら、急に体が重くなるのを感じた。
会計で支払いをするために窓口に行くと、銀行のように機械で支払うようになっていた。
迷った末、カード払いにした。

 隣で、機械を操作しているのは金曜に待合室で母親の遺品整理の話をしていた男だ。
そういえば、この男は自分より恵一に近い年だろう。
明夫はなぜか、金の大黒様は誰がもらったのだろうかと思った。
 おれが死んで残るのは…ガラクタばかりか? 
君子が片づけろと言ったのは、遺品整理が大変だからか。

 タクシーに乗ると、ますます気分が悪くなった。本当にどこか悪いのかもしれない。
君子は家にいるだろうか。
いや、いない方がいいかもしれない。
 そろそろガラクタを片づけないといけないのかもしれない。
ただ、君子に言われると腹が立つ。「片付けて」に、反射的に「うるさい!!」と怒鳴ってしまう。
それにいったいあのガラクタをどうすればいいのか、正直なところわからないのだ。
 もやもやしているうちにタクシーが止まった。

 玄関にカギがかかっていて、君子が留守だったらと思うと、扉に手がかけられない。
大きく深呼吸をし、ここはおれの家だとつぶやいてから扉に手をかけた。
開いた! 君子はいる。
のろのろと靴を脱いでいると君子の声がした。
「もう帰ったの~」
能天気な声を聞くとむかっとした。
「当たり前だ。それよりお帰りなさいぐらい言えないのか」
君子はリビングでのんびりテレビを見ていた。
「洗濯物は洗濯機に入れてくださいね」
無視して、そのまま書斎へ行く、ドアを開けて、なんだこれはと怒鳴った。
 四畳半の書斎は先ほど退院した病室のようにすっきりしていた。
入院前は床にも机の上にもモノがいっぱいで、足の踏み場もなかった。
 机の上には壊れたトースターが載っていたはずだ。君子が捨てるというのを、修理するからと部屋に持ち込んだのだ。

夫を信用してないのか君子は翌日新しいトースターを買ってきた。
あれから三年はたっているが、壊れたトースターはほこりをかぶって机の上で眠っていた。
雑誌やVHFのビデオもない。三十代半ばに半年ほど凝ったゴルフ用具もない。
ない、ない、ない! あるのは机と本棚と、収納ケース3つだけ。

「勝手に処分したのか」怒りを押し殺して君子に訊いた。
「そうよ」
いつの間にか君子は後ろに立っていた。
「すっきりしたでしょ」
まるで感謝せよというような物言いに明夫は振り向いた。
「おれの宝物をよくも、よくも…」言葉が続かなかった。
「宝物ってなによ? いやらしい雑誌やビデオがそんなに大切なの? 壊れたトースターをどうするの?」
「そういうことじゃないだろう」
「それじゃあ、ガラクタを戻せばいいの?」
 反論できない。正直なところほっとしているからだ。
しかし、勝手に処分したことは許せない。たとえ妻であっても…。

「明日から三日ほど勝枝さんと温泉に行きますから」
「おれは…めしは…体の具合も…」
「勝手に片づけて腹が立ったのでしょ。だからこれ以上干渉しません、お好きなように。
お土産に魚の干物くらい買ってきますから、よろしく」

 翌朝、君子が台所で朝食の支度をしていると、明夫が背広姿で食卓に座った。
「早いわね。背広を着てどこかへ行くの?」
君子の問いに明夫は堅い顔で答えた。
「おれも温泉に行く」
「あらまあ、どういう風の吹きまわしでしょうね」
「とにかく行く」

 きっとこの人、私が勝枝さんとではなく、恵一のマンションの管理人と行くのではないかと疑っているんだわ…君子は茶碗を並べながらひとりほくそえんだ。
 納豆をかき混ぜながら明夫は、こんな時でもなければ夫婦で温泉など行けやしない…いや、一人で取り残されてたまるか…君子があの管理人と…。

 待ち合わせの駅に着いた時に君子の携帯が鳴った。
メールを見て、勝枝さん急に来られなくなったって、残念だわとつぶやいた。

 明夫の胸に疑惑がわいた。
おい、そのメールを見せろ。君子の携帯を奪うようにして画面を見た。
「姑が風邪をひいて緊急入院です。残念ながら行けません。ごめんなさい」
 明夫は、お姑さんが入院したのなら仕方ないなと、君子に携帯を押し付けた。
 新幹線に並んで座るとすぐ明夫は車内販売でビールを求め、飲み始めた。
「まったく、朝からビールなんて飲んで、どういうつもり」
「うるさい、ほっといてくれ」
「またそれですか。それでは帰れば? 私は一人でもかまいませんから」
しばしの沈黙の後、明夫は小声で言った。
「おれが…悪かった」
「え、なんですか。聞こえません」
だ、か、ら、おれが悪かったと明夫が怒鳴った。
 車内の視線が集まった。
赤い顔をした明夫はトイレに行くと席を立った。
 君子は恵一にメールを打った。
「作戦成功!! 久しぶりに夫婦水入らずの温泉旅行を楽しんできます。
留守をよろしく」

28章 終

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