17章 ローゼン(老前）整理
10分遅刻だと思いながら二日酔いの頭で事務所のドアを開けたまろみに、オハヨーという蔵子の元気な声が響いた。
「すいません。昨夜は友達と調子に乗って飲みすぎました」
蔵子は熱い番茶と、梅干を載せた皿をまろみに渡した。
梅干は和歌山の受講者が送ってくれた果肉たっぷりの極上品である。
「蔵子さんは朝から元気ですねえ」と、まろみが珍獣でも見るようにささやいた。
「わたし、昨日お風呂で思いついたの！」
「また、どんなとんでもないことを考えたのですか」
「本を書こうと思っているけど、タイトルが決まったの」
右手でこめかみを押さえながら、まろみは熱い番茶をゆっくり飲む。
「はあ？ まだ、本の影も形もないのに、タイトルですか」
「そうよ、ネーミングが重要なのよ」
まろみは蔵子の目がこんな風にぴかっと光っているときは要注意だとわかっている。
それで、と梅干で口をすぼめているまろみにはおかまいなく、蔵子はまくしたてた。
「老前整理よ、ろ・う・ぜ・ん・せ・い・り」
「ローゼンセイリ？」
「老いる前の整理で老前整理よ。前から生前整理というのは、どうもピンとこなかったけど、言葉が見つからなくて、仕方なく使っていたことをまろみちゃんもわかっていたでしょう。これからは老前整理よ。なんでこんな簡単な言葉を思いつかなかったのかしらね」
まろみの頭はまだ休止状態である。
「流行語大賞になったらどうしよう？ 今年は無理としても、来年には…」
「あの、蔵子さん、それはまだちょっと。わたし頭がガンガンしてきました」
「ガンガンでもドンドンでもいいわよ。こういう言葉は、一番初めに活字にした人が言葉を作ったことになるのかしら、それとも、ホームページやブログに書くと記録に残るのかしら、それとも商標登録かな。名前だけ真似てもコンセプトがなければ意味はないけれど、そういう常識が通用しない人も多い時代かもしれない。確かプロ野球の阪神タイガースが優勝しそうな時に「阪神優勝」で商標登録した人がいてトラブルになっていたけれど、コンセプトもネーミングも、いくら私が考えましたと言っても、誰かに先に商標登録されると使えなくなってしまうかもしれない。まずは商標登録が優先事項ね。こういうのは誰に相談すればよいのか…とにかく、足跡を残そう、 今日は2009年8月19日でーす。」
「いったい、何を食べたらそんなにハイになるのですか。豆大福でもここまでは…」
「まろみちゃんが二日酔いだからそう思うのよ。これはK社の未来がかかっているのだから重大問題。“五〇歳から始めたい老前整理”とか、“元気な人の老前整理”とか、まだまだあるわねえ」
まろみの頭の中ではドラムが鳴り響いた。
「老前は漢字が解りやすいかしら。それとも、カタカナでローゼンのほうがイメージは良いかしらねえ。ローゼンはローズ、バラの花につながるかしら、それとも外国語のローゼンなんとかみたいな高級感があるかしら。どう思う？ まろみちゃん」
「どうもこうも、わかりません！」
どこかで聞いたオルゴールが鳴っている。
重い目を開けると、デジタルの時計は1012と表示している。
あの音はゴミの回収車の音だ。
しまった、寝過した。
まろみは布団をはねのけ、もう一度時計を見た。窓の外は明るい。
蔵子に電話をかけて謝ると、しかたないわねえと笑って、今日は外へ出る予定もないし、しっかり朝ご飯を食べ、お化粧をしてきなさいねと言われた。
以前、朝寝坊をした時、顔も洗わず寝ぐせのついたで頭で出社したので、あまりみっともないことはするなということだろう。
電車に乗るといつもと違い空いていた。たまにはこんな風にのんびり座って会社に行くのもいいものだと思った。
窓の外の景色を見ながら、なぜ目覚ましが鳴らなかったのかと考えているうちに、あれは夢だったのかと気がついた。
なぜだかハイになって、流行語大賞がどうとか言っていたが、あんな蔵子さんは初めてだった。
それにしても妙にリアルな夢だったが…。
蔵子さんは、確か、「ローゼンセイリ」と連呼していた。
昨年の暮れごろに、本を出したいと聞いたけれど、わたしの潜在意識に残っていたのだろうか。それにしても、ローゼンセイリはどこから来たのだろう。
もしかしたら、夢のお告げかも…。
まろみが事務所に入ると、応接コーナーで蔵子と女性の話し声が聞こえた。
「まろみちゃん、来たの？」
はい、と応接コーナーに顔を出すと、Ｍ出版の醍醐日名子が来客だった。
日名子も昨年の「新わくわく片付け講座」受講者である。
「日名子さんは、本の出版のことで来てくださったのよ」
「えっ、まさか、蔵子さんの夢の、あれですか」
日名子の、まろみちゃんは変わらないわねえという言葉を聞いて、まろみは寝癖を直してきて良かったと思った。
「最近、新聞の読者欄でも自分や家族の身辺整理についての投書が増えているらしくてね。日名子さんの会社でも、こういう時代だから、アラ還向けに生前整理についての本を出そうということになったらしいの」
「蔵子さんが書くのですか？」
日名子は頷くと、まろみの肌に鳥肌が立った。
「あの、それで、本のタイトルは？」
昨夜の夢を思い出しながら、まろみは日名子に恐る恐る訊いた。
「それがまだ決まってないの。生前整理という言葉は使いにくいなと思っているのだけど。蔵子さんはどう思われますか」
そうねえと蔵子も首をかしげた。
実はと、まろみが昨夜の夢の“老前整理”の話をすると、二人はソファーを叩き、涙を浮かべて笑い転げた。
「さすが、まろみちゃんね、流行語大賞まで飛躍するところがただ者ではないわ。こうなったら、夢のお告げを信じて老前整理にしましょうか。これが正夢で、流行語大賞が取れるくらい本が売れたら、Ｋ社も弊社もえらいことになりますよ。老前をカタカナにするかどうかは、帰って相談してみます。蔵子さん、それで良いですか」
「はい、けっこうです。まろみちゃん、流行語大賞の授賞式には二人で行きましょう」
「もう、蔵子さんったら、すぐその気になるのだから」
「蔵子さん、本についての企画では、もうひとつお話ししなければならないことがあります」
三人で盛り上がったあとだけに、日名子は言い出しかねていた。
「はい、なんでしょう。今日は4月１日ではないですよね」
苦笑しながら、日名子は話し始めた。
日名子の会社では、本にする前に実験的に、ブログで発表したいというのである。
そうすれば、少しずつでも読んでくれる人が増えるだろうということと、無料のPRになるからである。
蔵子が考え込んでいると、まろみが、それでは話が違うと食ってかかった。
「ブログっていうことは、毎日書かないといけないのではないですか」
「い、いえ、毎日でなくても良いです。できれば毎日がありがたいのですが。これは実験でして…」
「実験？ 蔵子さんはモルモット？ 誰かのブログが本になって売れたものだから、甘いことを考えているのではないですか。それでブログがうまくいかなかったら、本の出版は取りやめとか」
日名子は大げさに手を振って、そんなことはありませんと否定した。
「でも、ブログで発表すれば、誰も本を買わなくなるじゃあないですか。そんなの困りますよ」
「まろみさん、ブログを見る世代と、ほらさっきの“老前整理”を考える人たちは、違う層です」
「それなら、意味ないじゃないですか」
「これは、本を買う “アラ還”世代以上の人たちの息子や娘に読んでもらうのです。遺品整理は大変だから、親御さんが元気なうちに、ご自分で生前整理、いえ老前整理をしといてもらいましょうという、“アラ還”の子供たちへのナビゲーションとプロモーションです」
まろみは息をのんだ。
「うちの会社は小さな会社ですし、ベストセラーを出したこともありませんが、良心的な仕事をしているつもりです。ただ、新聞に蔵子さんの新刊の広告を出す余裕もありませんし、売ると言ってもルートは限られています。だけど、ブログなら無料で長期的にPRができるしファンも増やせるかもしれない」
二人の会話を黙って聞いていた蔵子が、静かにわかりましたと答えた。
「えっ、ほんとですか？」
「ただし、どの程度書けるかわかりませんよ。それに読んでくれる人がいるかどうか…」
「はじめは不安でしょうからハンドルネームで書いてください。時期を見てK社の名前を出してくだされば、会社のPRにもなると思いますよ。ついでに、うちの会社から出版予定があることも書いてくださいね」
日名子さんも抜け目がないと、まろみがつぶやいた。
「とにかく、ダメで元々だから、やってみましょう」
蔵子の言葉に、ああ良かったと日名子はソファーにへたりこんだ。
簡単な打ち合わせをして、それではよろしくお願いしますと日名子が笑顔で帰ると、今度はまろみがソファーにへたり込んだ。
「なんだかこの1時間は、1年分働いたようで疲れました」
「有意義な時間でした」と、蔵子は空になった来客用の茶わんを片付けた。
「蔵子さん、ほんとに、ブログの話は大丈夫ですか？ いや、誤解しないでくださいね。
内容の心配ではなくて、ブログを書く時間があるのかと思って」
「そんなの簡単よ。まろみちゃんが頑張ってくれれば、その分、わたしにも時間ができるでしょ」
まろみの目が点になった。
「わかりました。K社の未来は私の肩にかかっているということですね」
「はい、そうです」
「そんなに簡単に言わないで下さいよ」
「何もわざわざ難しく考える必要はないでしょう？ とにかく、できることをひとつずつやればいいのよ。これも整理・整頓と同じでしょ」
「そうですね。タコのように足が八本あるわけじゃないし、おまけに頭はひとつだから」
「ブログのことは、さっきも言ったようにダメ元でいいのよ。うまくいかなくても、K社としてリスクはないのだから」
「リスク？ 確かに、失うものはないですね」
「そうよ。無駄になるのは私の時間だけだけど、それも、思考のトレーニングだと思えばプラスにはなってもマイナスにはならない」
「さすが、転んでも徒（ただ）では起きない蔵子さんだ」
「それって、あまり人聞きが良くないけど…」
「えっ、そうですか。わたしはほめてるつもりですが、細かいことは気にしないでください」
「そうそう、日名子さんのお持たせのチーズケーキがあるのよ。いかが？」
「もちろんいただきます。脳を働かせるには、甘いものが必要です」
17章 終
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