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【脳からでまかせ】その3 〜人類は本当に便利で快適に発展して来たのか?〜

※散歩してたり風呂に入っている時などにふと思いつく、本当にどうでもいい事を、整理も熟考もせずにただ「書くためだけに書く」というのを楽しむためのシリーズでございます。


発想力だけなら、ジョブズと同等

先日、昔書いていたこのようなくだらない文章のいくつかを読み返していた。
その中に『携帯電話』をテーマにしたものがございまして。もう20年くらい前に書いたやつ。

ちょうど携帯電話(今でいう「ガラケー」ってやつだ)がすっかり普及して、各社で価格競争と過剰なサービスが展開され始めた頃のことだった。
文章では、基本的な通話、メール、カメラの機能の他に、ゲームやニュースの閲覧ができたり、通信機能を使った定額でのサービスが次々に登場していく様を眺めながら、今後携帯電話がどのように発展していくかを予想していた。
半分本気で、半分冗談で書いたのだが、おおよその予想は以下の通り。

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・今後携帯電話の通話料金の中に、ガスや電気などの光熱費の支払いも含まれるようになる。また、ゆくゆくはその他の交通費や買い物の支払いなども携帯端末で行なって引き落とされたりするようになる。

・GPSを使って、自分や他者の現在位置を確認して、探している場所の特定や、移動方法などを確認できるようになる。

・そのうち、この端末でテレビやラジオを視聴できるようになる。

・通信する相手とお互いの会話の画像を見ながら会話する、いわゆる「TV電話」的な機能ができる。

・しまいにはPC化して、ポケットで持ち運びできる小型コンピュータとして機能する。

・端末に口頭で命令すると、勝手に電話かけたり、その他の機能が使えたりするようになる。
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どうだろう?

まだまだ予想していたことはあるのだが、当時はまだ携帯電話が普及し始めて数年というところでスマートフォンなんて事は予想していなかったのだが、それでも当たらずとも遠からずといったところか、だいたいの事は実現できている。

当時の文章を読み返しながら
「オレ、もしかしたらスティーブ・ジョブズになれたんじゃないのか?」
とか思いつつ、さらにかつての自分の予想の続きを読み進めてみた。

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・端末から熱湯を出して、カップ麺やインスタントコーヒーを作れるようになる。

・主に女性に向けて「スタンガン機能」をオプションで搭載できる。

・変形して巨大ロボットになる。

・最終的に人類は携帯電話に住めるようになり、電話に携帯されて生きていく。

・そして究極の機能として、人々は携帯電話で電話がかけられることに気づく。

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読み進めていくごとに自分に対して残念な気持ちがこみ上げてきた。
果たして、”天才的発想” と”バカの思いつき”を隔てるポイントはどこにあるのだろう?


『未来』は別に輝いてはいなかった

こっからが本題。

この携帯電話ひとつ取っても、自分が子供の頃には「未来の機械」だったのだ。私が幼かった頃にはまだ家には固定電話すらなかった。世間的には「一家に一台」が当たり前になりつつあって、そのちょっと後になってから電話がついた。
急を要する連絡の場合は電報を使ってた時代である。札幌なんていう都会に住んでてもそうだったのだから、もしかすると田舎の方では、当時はまだ狼煙を上げてたんじゃないかと思う。

それを考えると、携帯電話なんていうものは非常に快適で便利なシロモノであり、子供の頃にはSFなどに登場する「未来の通信機」であったのだ。

そして未来は加速していき、いまやほんの20年前に於ける「未来」の機能が搭載されているのがスマートフォンであり、さらに腕時計で通信したり心拍数を測定して健康状態をチェックしたりしてるのは、昔の大人なら「なにそんな子供騙しのバカなマネしてるんだ」と鼻で笑うような行為ですらある。
SFドラマに出てきたシーンが日常になっているのだ。

通信端末が小型化されてコンピュータとして機能し、車は電気で走って、自動運転やもしかしたら近いうちに空を飛んだりするかもしれないところまで来ている。
勝手に掃除する機械だの、自動で皿洗うだの、家に帰って「電気つけて」とか「お風呂にお湯入れて」とか口に出したらちゃんとやってくれたりする世の中である。

ロボットまで登場してるし、子供の頃に漫画やドラマなどで見た生活にほぼ近い世の中だ。そう思うと、世界はだんだんと漫画のようになってきたと言えなくもない。
大谷翔平なんて、アレは絶対水島新司の原作だろう。

そこで問題なのは、そんな子供の頃にドキドキワクワクしていた未来の生活を手にしている割には、ちっとも心が踊らない毎日だということである。

未来というのはこうしたテクノロジー等の発展によって(それも、ほぼ昔のSFの通りのツールが登場している)、便利で快適な生活を送れるものであった筈だ。
しかし、いざその未来が来てみると、確かに便利は便利なのだろうが、一向に「暮らしやすくなった」という気がしない。

・端末に表示される文字が小さすぎて目が霞む。説明書も同様に老眼鏡が必要である。
・行動範囲は限られてるので地図を表示する必要がない。知らない場所でも、通りがかりの人に道を訊く方が話が早い。
・部屋の電気も、家電製品のスイッチも、わざわざ命令しなくても自分の手がとどく範囲にある部屋に住んでいる。
・機械に命令すれば自動で何でもやってくれる生活を手に入れる為には、他人に命令されて働かなくてはならない。
・そう思って就いた働き先のオートメーション機器の使い方が覚えられない。
・文字変換した漢字が難しくて読めない。
・スマホはどこに置いたんだっけ?
・探そうと思ったけど、探すためのメガネが見つからない。
・やっと見つけた頃には、スマホで何をしようとしてたのかが思い出せない。

などなど、人間は機械よりも先に老化とバカと貧乏を解決すべきだったと思う。
少なくとも、私はバカと貧乏を解決すべきだった。

子供の頃に胸をときめかせた「未来」にかなり近い環境となった現在、生活の中でときめきというよりも動悸や息切れを感じることが多く、「未来の実感」よりも「老いの自覚」を迫られる毎日を暮らしている。

そしてメガネはどこに行ったかな?


便利さを求めても快適にはならない

すみません、まだ本題になってませんでした。というか、本題がなんだったか忘れてしまったのだけれど、構わず書き進める。

携帯電話に顕著なように、技術の発展によって、確かに我々の生活は便利になった。
自動車がなかった時代に自動車が登場したのは、それはそれは便利に感じたことだろう。馬やロバを飼う必要もなく、また肉体を使って長距離を移動する必要もなく、座ってペダルを踏んでいれば、今までよりも早く目的地に行けるのだ。なんなら持って歩けないくらいの荷物まで乗っけて行ける。

飛行機が出来た時もそうだろう。
そして、手紙から電話になった時も、もちろんそうだ。
瓦版が新聞となり、印刷や配達の時間もなく、音声で情報が聞けるラジオが登場し、その後、画像まで見ることができるテレビが登場した時も、冷蔵庫や洗濯機、掃除機などの家電が登場した時も、全て便利で快適な生活の始まりを予感させたに違いない。

おそらく、大半の人たちは、そうした機器が登場する以前にあった不便さや不満を漠然と「あぁ、もっと楽に早く目的地に行けたらいいのに」とか「毎日買い物に行かなくても、食料を腐らせないで家に溜め込んでおけたらいいのに」とか「オリンピックなんて遠い場所でやるから行けないけど、家で競技が観れたらいいのに」とか漠然と思っていて、そこに登場した自動車や冷蔵庫なんていうものは「こんな解決方法があったんだ。こりゃ便利だ。すごい世の中になったもんだ。」と思っただろう。

だがしかし、その考えもしなかった便利で快適なものは、同時にこれまでなかった不便さや問題を生み出してきたのではないだろうか?
思い出した。コレが本題だ。

書き出しのきっかけが携帯電話だったので、携帯電話を例としてあげてみる。

そもそも電話というものが、手紙などの通信手段から、より素早く特定の誰かに連絡を取ってリアルタイムで要件を伝えたり、状況を伝えたり、ただ何となく相手の声が聞けたり、会話ができたり(お互いに離れた場所にいながら、時間のロス無しに意見交換や、意思の疎通をはかれたり、退屈なときに世間話ができる)という便利で快適な機器であった。
しかし、電話は固定であり、電話のある場所にいなければ通話することができなかった。
せっかく緊急連絡できる手段があるのに、年中不在にしていればそもそもの利点を活かせない。
しかし、携帯電話が登場すると事態はさらに快適で便利な方向へと転換した。

持ち歩くことができるようになり、番号さえ教えておけば(そして自分がちゃんと持ち歩いて電源が入っており、通話料を払っていれば)、自分がどこにいても電話に出ることができるのである。
仕事で出歩いている営業マンなどが、得意先から緊急の連絡が入る時など、それまでは一旦会社に電話があって、だれかが要件を聞き、それを営業マンが定時連絡した時に伝え、営業マンはその得意先に折り返し連絡を入れる。
ここで、要件のあった得意先の担当者が別用で席を外している場合などは、また折り返し会社に連絡してもらうなどして、やりとりする必要があった。

携帯電話になって、この不毛な折り返しの応酬はかなり軽減された筈だ。
先方から携帯に連絡が来る。万が一すぐに出られない場合でも留守番電話に要件を入れれば、直接伝えられるし、着信の履歴があればすぐに折り返すことができる。

また、今まで自分が緊急事態になり、すぐにでも救急車を呼びたい状況で、動くことすらできず電話できなかったのが、携帯電話があるおかげで助かったという場合もあるだろう。

かくいう、私がその一人である。
まだ早朝で人通りもほとんどなかった路上で足を骨折し、動きようのなかった時に、携帯電話で救急車を呼んだのである。
骨折ならまだしも、この世に携帯電話がなかったら命を落としていたというケースもかなりあるだろう。

もう少し軽いところでいうと、例えば誰かと待ち合わせをしていて、場所がわからないとか遅刻しそうだという時に、かつてはお互いに家を出てしまっている為に連絡がつかないという状況だったのが、移動しながら連絡がつけられるのである。

このように、携帯電話の登場によって私たちの生活はより便利に快適になった筈だ。
「こういうモノがあったら、もっと生活は簡単に楽になるのに」と思っていたモノを手にしているのである。

しかし、その結果、私たちの生活は快適になってるだろうか?


新しい機能は新しい憂鬱を連れてくる

携帯電話が登場して、それまでよりも素早く連絡がつくことで様々な要件をすぐに片付けることができ、連絡がつかないという精神的なストレスも軽減されたはずの現在。
私たちは、以前よりもスムーズに物事が進行する分で得た時間をどうすごしているのだろう?

おそらく、大抵の人はその節約された時間を使って別の用事をこなしているのではないだろうか?
と、いうよりも、以前よりも用事が増えたのではないだろうか?
それは多分、携帯電話をはじめとする通信機能の発達のおかげだ。

より多くの情報や用件を素早く処理できるようになったのだから、その分の空いた時間はのんびりすればよかったのだ。それが「便利で快適な生活」につながる筈だ。

だが携帯電話登場以前には「連絡がつかなかったからしょうがないよね」で済んできた用事が、連絡がついちゃうものだから次々にこなさなければならなくなっており、そんなに気が乗らない飲み会の誘いなんぞも、連絡がつかない事をいいことに知らばっくれることができていたのが、どこにいてもメールで(今ならLINEか?)通達されるので、付き合い上、仕方なく出なければならないとか、気づかないふりで無視するのが何度か続けば「連絡を確認しないだらしのない人間」ということで、信用問題に関わるために、ストレスが発生する。もしくは、露骨に行きたくないのがバレる。

用事がスムーズに片付けられるようになった筈なのに、用事に追われるような気分が付きまとい、ヘタをすると処理すべき用事がない、なくてもいい情報が入らないといった事に不安を感じたりする。

人類誕生から考えると、携帯電話が登場するまで何万年も経過しているのであるが、その間、人類は携帯電話がなくてもちゃんと生活できていたのだ。
しかし、その「なくて済んでたもの」がほんの数十年で「ないと生きていけない」くらいの勢いで生活の基盤となっており、困ったことに、携帯電話登場までは存在しなかった、想像さえしなかった不便さや憂鬱な状況まで発生している。

おそらく、携帯電話が登場した時、だれもが「これで連絡取りやすくなるし、物事は楽になって時間的な余裕もできるな」などと考えていたはずなのに。

これは携帯電話に限ったことではない。

自動車が世に出てきた時には、誰もがスイスイと移動できる便利さに目がいった筈で、それまで「排気ガスによる健康や環境の問題」などは存在しなかったのだ。
スムーズに移動できる快適さは、こうした問題を生み出し、携帯電話同様、移動時間が少なくなった分、それまでやらなくて済んだ用事をこなす事になり、疲労のため運転時に不注意による事故を起こす。
誰もが快適な移動を求めるあまり、渋滞が発生し、まったくスムーズに移動できない車内でそれまで経験したことのない不便を感じる。

飛行機はどうだろう? 洗濯機は? エレベーターは?

こうやって考えていくと、新しい技術が登場するたびに、人々はその新しい機能に便利だと感じ、その後で新しい問題や不便さや追加された用事に悩まされて来たのではないだろうか?

通信手段も移動手段も、コンピューターもロボットも、それが無い時には無いままで世の中は動いていたのである。どれもが登場するたびにやることが増え、処理スピードは増し、それが無いと処理しきれない速さと量でやることが押し寄せてくる。


それを解決する為に、また新しい機能と技術が登場し、その為に不便の種類が増えていくということの繰り返しのような気がしないでもない。


面倒を増やすという特性

ものすごく大雑把に言ってしまえば、そもそも技術の発展による、新しい快適さや便利さというのは、すべて資源問題と環境問題を孕んでいるとも言えそうだ。

それはともかく

ホモ・サピエンスの誕生以来、我々はずーっと長い間、「無ければ無いで済んでた」モノや技術を作り続けて来た。それが文明の進歩なんだか文化の発展なんだか技術の向上なんだか、色々と言いようはあるけれど、人類の歴史は「次々と多様で多彩な不便や憂鬱や厄介ごとを創造して来た歴史」とも言ってもいい。言わなくてもいい。

思うに、まだ二本足で歩くようになって間も無い、まだ猿っぽい頃のヒトは、主に食料を見つけることだけが用事であり、腹が満たされると寝たり交尾したりする生活だったのだろう。
そして腹が減っていても、満腹だったにしても、干ばつなどの影響で周辺に食料がなくなれば移動して過ごして来た。
それがある時、誰かが「硬い石をぶつけると、動物の骨を砕いて、栄養価の高い骨髄を食べることができる」とか気づいてしまった。まぁ栄養価がどうとかってよりは、美味しくて元気になるものとかそういうことだろうけど。
あと、果物とかでもなんでも砕いたりすりつぶしたりできるしね。
もしくは、生きてる動物に石を投げつけたら死ぬか倒れるかして、肉にありついたとか、長い木の枝を使えば手の届かない枝にぶら下がってる果物を落とせるとか。

これに気づいた人って多分、当時のエジソンとかスティーブ・ジョブズとかみたいなヒトなんだと思う。
多くの猿っぽい人たちは、身体ひとつで狩猟採取してた時には「もうちょい安全で楽に食べ物を手に入れたいな〜」程度のことしか考えてなかったんじゃなかろうか?
もしくは、食べ物というのはこのようなリスクを冒して手に入れるものだということで済んでたのではないかと思う。

それが道具を使い始めてみると、便利この上なく、その時初めて自分たちがこれまでいかに無駄なリスクを負っていたのかと思うようになったのかもね。

で、石や木の枝、それに動物の骨などを使う事を覚えると、色々と余計な事(今まで考える必要もなかった事)を考え始める。それが大事なことになってくる。

石の大きさとか、硬さとか、そのうち尖った先端を持つ枝の方が突き刺すのにいいとなると、木を削って先端を尖らせたり(その為に加工しやすい石を探して来たり)、尖った木の枝よりも丈夫で何度も使えるようにと石を尖らせて、それを木の棒にくくりつけたり、遠くへ飛ばして威力を倍増させたりするようになる。

これによって、より効率よく食料を確保できるようになったんだろうが、素早く食べ物を得ることができるため、今までよりも時間はできた筈なのに、そうはならなかった。

食料を探し回る時間が減った分、もしくはそれ以上に彼らは道具となる適当な石や木や骨を探し回り、加工して、さらに工夫を凝らすと言った作業に費やされるようになる。
多分、こうなってくると、食料確保以外の労働による消耗やこれまで以上に脳のエネルギー消費が激しくなるので、余計に食料を得ないと身体が持たなくなる。

こうして今更もとには戻れない道を、かつては無くてもどうにかなっていた道具無しでは生活できずに、その苦労から楽になろうとして新しい技術や道具を生み出しては、派生して生まれた面倒に追われるという歴史が始まったんだろう。

人類は発展して来たつもりでいるけれど、実は作業の根本は同じでバリエーションを増やして来ただけなのかもしれない。
尖った石の加工方法を工夫し改善していくのと同様の行為の最新版が「ソフトウェア・アップデート」と呼ばれる作業だ。
ものごとが複雑になっただけで、やってることの根本は変わっていない。

基本的に、人類が誕生した頃は食料確保と繁殖のことだけ、つまりは生存と種の継続を考えて気にしていればよかったものが、今でもそれは変わりない筈なのに、この2点の目的を叶える為にクリアしなければならない「余計な事」を創造し続けた挙句、ヒトはあまりにもやらなければならないことや気に病むことが増えすぎて、生命が危うくなるくらい健康を害したり、子供を作る余裕が持てなくなるまでに進歩して来た。

コレを書きながら、狩猟採取から、農耕、国家の成立、経済、宗教、産業革命、そしてIT時代の到来と「どんな面倒を増やして来たか」という観点から人類史をたどってみるのも面白そうだと思ったけど、それができるようになる程に勉強するのは面倒なんでやめた。
このように、余計な面倒を増やす事を思いつくのが、ほかの動物にはないヒトの特性なのかもしれない。


「昔は良かった」とは言いたくないが


「昔は良かった」と、昔を経験して来た人間は言う。
ものがなく生活が不便だったとしても、かつては人間関係が豊かだったとか、心の豊かさがあったとか。
これはもう、それこそ昔から言われていたのだ。
自分が見聞きした限りで一番古い年代に書き記されたこの「昔は良かった」という言葉が登場する文献は、ソクラテスが書いた文章である。
そんな昔から昔の方が良かったのだ。

もし本当に昔の方が良かったのだとしたら、人類は途方もなく長い年月をかけて悪くなり続けているのだろうか?

おそらく、文字が誕生するまで(コレもまた「考えたことや言いたかったことや、起きた事を後になっても確認できるようにできたらいいな」と思ったのかもしれないが、そのおかげで忘れてもらった方がいいことまで残されるようになった)の間も、ヒトは「昔は良かった」と思っていたのかもしれない。

二足歩行になった猿っぽいヒトの中には「昔は良かったよ、木の上で暮らして、そこら辺にある果物食ってりゃよかったんだから」なんて思いながら、来る日も来る日も石を集めて削る作業に追われていたのがいたかもしれない。

どのくらい昔に戻ればちょうどいいのかは人それぞれだろうが、実際に今、携帯電話のない時代に戻ったら、良いも悪いもなく社会が崩壊すると思う。ほんの30年前のことではあるが、自分が携帯電話も無しにどうやって生活してたのかまったくわからない。存在すらしていなかった頃にはなくて当たり前でやってきたのに、あることに慣れた今、それがなくなるとものすごく不便な生活に感じるだろう。

なので「昔は良かった」とは簡単には言えない。

ただ、何気なく「昔は良かった」と思う時、それは多分、今の人もソクラテスも同じように、自分がある程度の若さだった頃の暮らしを思い返しているのではないだろうか?

私と同じ世代の人間で「冷蔵庫や洗濯機がない暮らしの方がいい」と思う人はいないだろう。
ソクラテスだって、「裸足でサバンナを食い物探してうろつき回ってた時代が良かった」と思ってアレを書いたわけではあるまい。

もしかしたら「昔は良かった」というのは、それは「自分が子供の頃に体験した時代が居心地が良かった」というだけのことかもしれない。
その頃はそんなに責任を負わされることもなく、最新の機械や技術は当たり前のもので、特に考えなくても誰かが自分の世話をしてくれて、保護してくれて、新しく登場する「便利なもの」に驚いたり喜んだりするくらい感性が瑞々しかったのだ。

おそらく今の子供も、新しく出てくる技術に嬉々として飛びつくのだろうが、こちとら今や新しいものについていけなくなり、機能が増えると同時に面倒臭さも増えているのである。そりゃあ昔の方がよかったよ。最新のものを受け入れる柔軟性も体力もあったんだから。


面倒は多彩どころか厄介さを増している

これまで書いて来たように、人は「より良い暮らし」の為に、より面倒な事を抱え込んできた。
おかげで様々な技術や知識は増え、今ではこのままいくと資源の枯渇や環境の破壊につながり、人類は生存できなくなると予測できるくらいの良い暮らしができている。

石油エネルギーが枯渇するとか、使っていると温暖化を加速させるとかで、石油に頼らず、排気ガス規制をするために自動車は電動化し始めている。近い将来にはガソリン車の生産はできなくなり、完全EV化するらしい。

確かに石油は使わなくなるのだろうが、EV化するに当たってバッテリーに使用されるリチウム(すでに携帯電話のバッテリーとしても活躍中)というのは鉱物資源である。
これが今まで以上に大量に採掘されるのだから、やがては枯渇するし、なんらかの形で環境にも影響を与える。ついでに言えば、リチウムを採掘して生成する為に、今まで使用していなかった石油が使われてると思うんだが、どうだろう?

要するに、快適な暮らしをする為にローンを組んで、それが家計を圧迫するようになったから他でも借りてという事を繰り返しているうちに破綻するようなもんである。それを地球規模でやっている。

発展するに従って、面倒や問題の規模も大きくなるという点では、核エネルギーというのも代表的なものだろう。

かと言って、今突然「狩猟採取の時代に戻りましょう」と言われても、私なんかは真っ先に食いっぱぐれると思うのだが、ちょうどいい落としどころというのはどこなんだろう?

と、このように、ヒトがいかに面倒を増やして来たかに関しての考察を書いて来た訳だが、遠い未来に誰かがコレを読んだら「人間は進歩して来た挙句に、こんな面倒臭くて余計なことばかりするようになってしまったんだ」と気づいてくれるかもしれない。

あるいは、「こいつ、面倒くせぇ奴だな」と気づかれるかもしれない。


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