オリンピックまであと1年を切って思っていること

昨夏、私は東京オリンピックのボランティアに対する皮肉を述べ、局所的な支持を得た。結局ボランティアは十分に集まったようだけれど……

あれから1年を経た今、もはやボランティアの問題にとどまらずオリンピック全体に対して私は失望してしまっている。これはその失望についてのまとまりのない文章である。

東京オリンピックは中止にはならないし、なんなら失敗もしないだろう。オリンピックにはまさしく国の威信をかけて莫大な資金と労力が投下されているのであって、それが少数派によるTwitterでの非難程度ではいそうですかとひっくり返るわけはないから中止はあり得ないし、仮にオリンピック期間中に失敗があったとして、よほどのものでなければ、それすらも肯定的な評価が——「不測の事態を乗り切った都職員の信念」などといった見出しのついた記事とともに——マスメディアによって与えられ、広められるであろうことは、先の戦争を鑑みれば想像に難くない。それはつまり失敗ではないということである。

それでもできれば、オリンピックが誰も弁護できないくらい明確に失敗してほしい、と今では思う。それを楽しみにしている人が多くいるのだろうということもわかっているし、そのために日夜努力している人がいるのだろうということもわかっている。その人たちの思いや労力を踏みにじりたくはない、できれば報われた方がいいに決まっている。決まっているが、このオリンピックが成功してしまうことは、おそらく将来的にこの国のためにならない。

現時点で想定されている様々な問題に対する、現時点で報道されている様々な解決策、例えば人工雪を降らしてみるとか朝顔を置いてみるなどといったものはどれもこれも酔狂なものであり、そんなものが考案され、会議を通って実行されてしまう事態が、国家を挙げたイベントで起こってしまうのは、恥ずかしいとしか言いようがないし、非常に絶望的な気分にさせられるが、そういった間違った考え方と努力は、オリンピックの失敗くらいの出来事が起こらなければ、なかなかこの国から消えてくれそうにもない。

もっとも、数百万の人命を失った挙句戦争に負けてもなお、根強くそれらは残っているわけだから、オリンピックが失敗したくらいでは消えないかもしれないが、少なくとも五年か十年は多少鳴りを潜めてくれるのではないだろうかと思う。

しかし、オリンピックが無事成功した(ことになった)ら、爆発的な歓喜のムードとともにそういった誤ちまでもが忘れ去られ、誰もそんなものを省みなくなってしまうだろう。そうしたらこの国は、また誰かの犠牲を以て砂上の楼閣を懸命に築きあげ、それを必死に維持するという残念なプロセスから多少でも抜け出す貴重な機会を失ってしまうことになる。

オリンピックが終わっても日本は存在するし、国民はそこで生きていかねばならないのだから、オリンピックが我が国にはびこる誤った精神を強化するように運営されるのは我慢ならない。オリンピックが本当に国の威信をかけたイベントだというのなら、合理的な判断を以て意味不明な精神論など一蹴し、誰も不必要な犠牲となることのないように実行するべきだろうと思わないのか。

この文章はきっと誰にも届かないし、当然オリンピックのあり方を変えることなどないから、これは自己満足というべきものであろう。しかし私はこれを書かずにはいられない。この恥と失望を文章以外の形でどのように処理すれば良いのかわからない。同じことを考えている人が、この文章によって自分の思いが適切に言語化されているな、と感じてくれればそれ以上の望みはない。これはおそらくメインストリームの意見ではないし、よほど大多数が同じことを考えてくれるのでなければ、もう今更オリンピックはどうにもならないだろうから。

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