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24時間テレビという禊。あるいは社会の怨霊としての我ら。

まもなく今年の24時間テレビも終わる。結局、今年も1秒たりとも見ないで終わってしまった。別に見てやる義理や義務もないんだけど聴覚障害と発達障害あって、障害者手帳も持っている本物の障害者としてはなんとなく気になり続けている。

いうまでもないけど、24時間テレビは日本最大のチャリティ番組で、頑張る障害者の姿が放送されて、何億円という寄付が集まる。そして、その寄付されたお金はあちこちの障害者の施設なりイベントなりに使われるので、「障害者」のためにこれ以上ない素晴らしいイベントのはずだ。

だけど、私の友人たち(ほとんど障害者)はどいつもこいつもへそが曲がっているのか24時間テレビが好きではない。曰く「感動させる意味がわからない」、曰く「芸能人がいらない」曰く「実際に障害者のためになっているのか?」

まぁ、私だって「障害者が頑張るという姿」にいちいち意味を見られるのもあんまり好きではない。当たり前なんだけど私たちにとって「障害者が頑張る」というのはコンテンツではなくて、自分自身が生きるための行動だ。障害者が何かをすることで感動するということに冷淡でも仕方ない。いつだって一人24時間テレビだ。

それに、いつだって障害者はここにいるわけだし、大半の障害者は24時間テレビの恩恵を受けられるわけではない。むしろ、24時間テレビを見て「お前も頑張れよ」だとか「もっと努力しろよ」とかそういう言葉を投げつけられてムカついたという経験を重ねてる人のほうが多いんじゃないだろうか。それに「普段から努力している自分を見下したり馬鹿にしてるやつ」がしたり顔で「感動した!」とか言い合ってる姿に、途方も無い徒労感を感じることだってあるだろう。

そして、私達障害者が切実に求めているのは、具体的な支援であり、制度であり、金であり、支援機器だ。感動した、という言葉ではないのだ。そういう空虚さを感じずにはいられないのが、障害者の24時間テレビ嫌いの根源じゃないだろうか。

でもまぁ、24時間テレビは「そういうもの」だ。

実のところ、24時間テレビは誰のためにやってるかと言うと「視聴者」のためだろう。視聴者が24時間テレビを見て、感動して、もしかしたら少し募金してくれるかもしれない。それで「いいこと」をして障害者のためになった、と満足するだろう。

それはなにか除夜の鐘のイメージと重なるところがある。24時間テレビとは普段から感じている障害者への後ろめたさを清めてくれる禊なのだろう。ならば我々は流される穢れでしかないのかもしれない。

だけど、私達は祓われずにここで行きていくしかない。ならば、私達は私達で発信し、助けを求めていくしかない。

我々はここにいるのだ、と声をあげていくのだ。決して何かのイベントではなく、何かのコンテンツではないと叫び、助けを求めるのだ。まるで地縛霊が何かを訴えるかのように。

障害者は決して天使などではない。この世に生まれた矛盾であり、呪いであり、禍々しいなにかである。

しかし、この国では、怨念であるからこそ、祀られるのだ。だから、安心して、祟り神になっていこう。どうせ、救われぬ身ならば、24時間テレビというお参りに祓われない怨念として、私達はこの社会に漂っていこう。

いつか本当の祈りがある時を信じて。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。