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「大人の男」になれなかった私へ。あるいは「問題」すら見えない痛みについて。

私は「男」であるけども「大人の男」ではない、という変な意識を持っている。別に脳が女性であるとか、性的嗜好が男性に向いている、というわけでもない。(妻ということになっているあおはXジェンダーであるようなのだがそれはさておき)

様々な場所で「男性は〜」「女性は〜」という話題がつきないわけだけども、こういう議論において「男性」というものは「健康で社会的地位があって既婚者で…」というマジョリティー性の塊に思える。だから「障害者である」という少数派としてのアイデンティティーを強固に持っている私はこの手の議論において「男性」ではないのだ、という理屈だ。

では、無条件にこういう議論で「女性側」かというとそうでもなくて、やっぱり性的なものに関しては「いいじゃんそのくらい」と思うレンジはオタクだったこともあって一般的な男性より遥かに広いし、(主に肉体的な意味での)男性性をなじられるとむかっとはする。だけども、「男の理論」をかざすやつにも同じくらいの嫌悪感を感じる、というめんどくさい「男」だ。

前回、noteのコラムで「社会の断絶を超えるためにはみんなが等しく無知なのだという意識を持つべきだ」ということを書いた。

相手は身体性を持っていて、男性なら男性の身体を、女性なら女性の身体を(例外もありつつも)持っている。だから、男性の身体のことは体験できないし、その逆もしかりだ。「男は女のことを、女は男のことを知らない」というのは当たり前のことだし、私だって「男」のほうが(まだ)理解しやすい生き物だ。男女の違いの話をするときは、お互いに「理解する」しようとする態度なしにはただの罵倒大会にしかならない。

だけども、そこに「男」であることが無条件で有利なこともある。このへんの「男性である」ことについては私がリスペクトする文筆家である鈴木悠平さんのコラムを読んでほしい。

しかし…我が身を振り返って、これまで自分が一切の性差別や抑圧に加担していなかったと言えるだろうか。多かれ少なかれ自分の中にもある「男の子」性が、無邪気に誰かを傷つけたことはなかったと言えるのか。小学校での隣の席の女子へのいたずら、思春期の男子たちの集まりで語られる「誰がいい」「あいつは無いわ」といった品定め。「悪気はなかった」「ちょっと口が滑っただけ」「幼かった。今はそんなことしない」と言い訳するのはたやすいが、そうした小さな鈍感さの積み重ねが、誰かを傷つけていなかったと言えるだろうか。

男性であるとは、女性を「自由にできる」という意識を持ちがちだし、それはすなわち「権力」が男の側にウェイトが置かれているからだ。

この「権力」がなにに由来するかは研究されているんだろうけど、私は男性のほうが体力に優れている、ということに起因していると思っている。力ずくでなにかしようとしたら、平均的に言えば男性のほうが強いに決まっている。そういう原始的な「暴力性」が今でも日常的な生活に見え隠れしているし(それこそ「夫婦」という言葉だってそうだ)、女性の貧困なり、シングルマザーの問題なり、「お母さん」問題なり、の非対称的な問題にも「暴力・権力」の問題はつきまとう。

このような暴力性が関わる場合において、「男は女のことを知らない」という場合と「女は男のことを知らない」という言葉は身体の安全性の意味で対称ではないのだ。

最近の社会はこの「暴力性の非対称」を埋める形で進んでいる。ストーカーの厳罰化やDVから逃げる女性の保護の強化、「#metoo」も「男性の暴力性から自由になる」という意味では軸を一つにしているように思う。だから、レペゼン地球が巻き起こした「セクハラ騒動」は「セクハラ(≒男性から女性への暴力)をプロモーションに利用した」という点で炎上して当然、ではある。この「暴力性への無知」(あるいは積極的な利用)は繰り返し「説明」して根絶していかなければならないものの一つなんだろう。

ところで、「男同士」だってその中に複雑な「暴力」があるし、激しい競争もある。それこそ戦争で兵士として真っ先に命を落とすのだって男だし、その兵士を殺すのも男だ。だけども、そこにはある種の「勝つ−負けるの同意」がある気がする。それこそ、公正公平に行われた決闘では「勝った方」も「負けた方」にも敬意が払われるように。この「同意」が男が男である意味を保っている。(之をどうすればいいかはわからない)

話はちょっとすっ飛ぶんだけど、「おそいひと」という映画がある。「脳性麻痺を持つ重度の身体障害者」が「人を次々と殺す」というバイオレン映画だ。(演じているのは実際に重度脳性麻痺がある住田雅清氏)

この映画は、2004年に東京でプレミア上映されたけども「障害者に対する差別」だという批判が舞い上がった。男が男を殺すという作品は数多あるけども、「男性だから人を殺すなんて男差別だ」という意見は聞いたことがない。女性が男性を殺す、という作品は少なくはないけど、男ー男の殺人より意味付けは重くなる。だけどまぁ、作品としてその構造が差別だ、批判されるのは珍しいだろう。

では、障害者が人を殺すとはなぜ差別的に感じるんだろう?それは「障害者が殺人ができるわけがない」という「常識」があるからだ。創作は常識を一気にひっくり返す力もあるんだけど、ありえないものを見たときに人間は嫌悪感を感じるのは当たり前だ。特に、普段から重度障害者に接している人からすれば、そんな「非常識なこと」をネタにする時点で不謹慎の極みであると感じて当然だ。

だけど、先日「頚髄損傷で首から下が全く動かない男性」が「準強制わいせつの疑い」で逮捕された事件があった。

あまりに理解不可能な事件にSNSではむしろ黙殺された感すらある事件なんだけども、重度傷害者が犯罪を犯すことが決して不可能ではない、ということは証明できたと思う。(こんな方法で証明する必要もないのだけど)

障害者だって自立した意識を持つ人間だし、頭を使うことができる。その知恵を駆使して殺人を犯す姿はむしろ障害者の可能性の表現とも言えるだろう。(もちろんこんな表現しないほうがいい)

とはいえ、障害者が「暴力の加害者」にあることは多くはない。むしろ「障害者の暴力性」を描くことすらタブーになるくらいだ。暴力性の発露が権力の根底にあるのならば、「障害者」の権力は非常に弱いことになるし、実際、障害者の生き方は「健常者の都合」によって大きく揺れ動いている。それでも、その権力の不均等さは「男ー女」の間の勾配よりわかりにくく、問題にすらされない。「健常者ー障害者」の間にある「暴力」が可視化されていないのだ。

障害者の進学機会の少なさは、もちろん制度の不備によるけども、その制度の不備には「障害者が進学してどうなるんだ?」という素朴な疑問によるものではないか?障害者の給料が安いのは、能力的なものがあるけども、それ以上に「そんなものでいいだろう」という抑圧によるものではないか?そういう「抑圧」に対して声を上げない「障害者」が多いのはなぜか?それはそれが暴力だと「知られていない」からだ。異なる身体性を持つ他者への無知、がここにも現れている。

しかし、ここで「あなたがた男女の区別なく障害者の差別者だ」と私が糾弾することでなにが生まれるんだろうか。おそらく、何も生み出さない。むしろ「そんなこと知らんがな」と怒られることだってありえる。この圧倒的な無力の中で私ができることってなんなんだろうか、と考え込んでしまう。

最初の話に戻る。私は「男」であるが決して「マジョリティの特典」をふんだんに味わえる立場ではない。障害者というマイノリティー性がより多くいろんなものを覆ってしまっているからだ。だから、私は「大人の男」ではない、という意識が強い。

私が初めて自分が障害者だと意識したのは、小学5年生のときだ。私は3歳の頃には戦車の前でニコニコした写真が残っているし、親にせがんで自衛隊の基地祭りに行って、小銃を抱えたり、機関銃に触ったりしていた。

だから、「耳に障害があると入隊資格を満たさない」と知ったとき、理不尽さを感じて泣いた。幼き私にとって、軍人=大人の男、であったから、その時のトラウマが未だに私を「大人の男」に成長させていない気がするのだ。

だけども、この痛みは、「人の無知を知る」ということで大きな意味を持っている。この痛みが、「マイノリティーである苦しみ」を知る鍵になる。この痛みが、世界から少しでも「暴力の可視化」をして、世界から少しでも「憎悪で断絶する社会」をなんとかしようという原動力になっている。

私は「大人の男」になれない。だけども、「男である」し「障害者」でもある。このグラデーションを、いくつもの軸を、私は俯瞰して生きていこう。私の知ることを、世の中が知らないことを、どんどん発信していこう。

「大人の男」になれないことに絶望した幼き私へ。それでも君は歩んでいけた。私は今、「私」になる旅をしていける。他の人が知らない「世界」を知る冒険ができる。だから「大人の男」になれなくても、私は。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。