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くらげの毒抜き日記 Vol.7 「メディアの素材になるリテラシーについての覚書」というお話

「LITALICO発達ナビ」編集長の鈴木さん経由で「記事の「事前チェック」について」という議論があることを知った。まぁ、最近はマスコミを「マスゴミ」と罵る人が増えたりまぁ様々な不祥事が明るみにでたりと以前ほど「取材しやすい環境」ではなくなっているのだろう。お疲れ様である。

私は様々なメディアに取り上げてもらったことがある。しかし、メディア側から「確認してほしい」というとき以外は事前チェックをしたい、と思ったことも依頼したこともない。要はなすがまま、なのである。これは別にマスコミを信用しているというわけではない。

私が本格的にマスメディアで取材を受けたのは本を出して以降であり、顔と本の名前が広まれば書籍が売れるという好循環ができあがっている。なので、とかくうるさく口を出すよりは「今後も使ってほしい」ということで「素材に徹する」という態度を貫いている。

上の議論は「報道する側の話」がメインで、実はインタビュイーとはどのような態度をマスコミにとるべきか、という問題もある。で、こちらももちろん一様ではない。もちろん事件に巻き込まれたというのは論外にしても、今のところ私は平和にインタビュー・取材をされている。

そういう立場からすれば「マスコミの素材となることでどれだけ自分の利益を拡大できるか」ということを考えてもいいはずだし、そういう観点からすれば「インタビューを断る」ということも大事なオプションだ。まぁ、ここでマスコミは「選択肢を与えない」という問題もあるが。

私たちはメディアができて何十年もたった時代に生きている。なので、一般市民が「取材を受けること」についてのメリット・デメリット・危険性にもっと敏感になっていいし「取材を受ける側としての」メディアリテラシー教育というものがあってもいいと思うのだ。

現代は私達一般市民が「メディア化」している時代でもある。その中で私達もネットに何かを書くとき被写体やネタ元に許可や確認をどれだけとっているかというとマスコミをそう笑えないし、むしろそれ以上に無責任な面も多いだろう。

そういう世界で「メディア」の素材としてどう振る舞えばよいかと考えることは常になんかしらの「メディア」に晒される可能性がある時代の人間として考えてもいいことだと思うのである。もっと「世間に晒される」ことを本気で考えなければならいのだ。

というところで、あまりまとまらないので終わり。終わりったら終わり。そのうち続きを書くかもしれないが。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。