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2枚の板きれ

サンタさんは居ない


小学校入学時に岩手県花巻市へ転入、以後高校卒業までこの地で過ごしました。

花巻の家には 祖父母、両親 父の妹(ひろ子ねーちゃん)、妹2人 の8人家族。家は祖父のこだわりの詰まった、ちょうど建てたばかりの家でした。(このパワフルなひろ子ねーちゃんも後述します。)

建てたばかりなのに”囲炉裏”と”自在鉤”が家の中央にある。と言えば想像ができるかと思います。家というより屋敷という感じです。

自宅から歩いて30秒くらいのところに陶芸家がいました。おん歳60位だったのでしょうか。

長いヒゲの陶芸家は子供の時はとても怖い人と思っていました。

ある雪の日、陶芸家の敷地内に盛っていた2つの小山で近所の子と遊んでいたのですが、奥から飛んできてひどく罵声を浴びせながら、雪を投げつけてきました。

おー こわ

今考えれば山から掘ってきた原土を寝かせていた盛り土だったのかと。大事な物だったのでしょう。

祖父の阿部 博(界隈ではハクさんと呼ばれていました)が開業当初から懇意にしていて、家には彼の作品が沢山ありました。ハクさんは彼の陶磁に限らず国内外の民芸品や絵画、書をたくさん収集していた爺さまでした。
(江戸後期に始まり廃窯、この怖かったお爺さんが再興したこの歴史ある窯元、現在3代目修行中です。)

後にわかったのですがその爺さま、ハクさんは戦時中、花巻に疎開してきた 高村光太郎 が山奥で生活していた頃、足繁く通い野菜の育て方などを教え、光太郞からは渡航した時の話や美術の話、田舎では考えられないような経験談を酒を酌み交わしながら聞いていたようでした。
http://koyama287.livedoor.blog/archives/7526764.html

なんせ戦時中にバターケースやイギリスのスリップウェアの灰皿を使っていた光太郎です。見聞きしたことは爺さんには影響大だったと思います。
疎開での生活や持ち物は 以下、高村光太郎記念館で見られます。
https://www.hanamaki-takamura-kotaro.jp

花巻といえばやはり大谷や菊池を排出した花巻東。ではなく宮沢賢治でしょう。その宮沢家の縁で光太郎も東京から花巻へ、またハクさんも光太郎の粗末な山小屋へ様子を見に行っていました。こちらも長くなるので後述します。

その爺さま ハクさんは今で言う丁寧な生活をしていて所作がとても美しく、またキセルや懐中時計など持ち物もかっこよかったんです。ハイカラな爺さんでした。

私の箸の持ち方、魚の食べ方が悪いと自分の箸を逆さに持ち私の手を叩くこともありました。小学1.2年生にですよ。泣  "中学生になったら良い時計を買ってやる"と言っていましたが、私が小学4年生の時、紫綬褒章をもらってすぐに若くして亡くなりました。享年68歳 ハクさんも後に再登場します。

さて

皆さん小さい頃クリスマスプレゼントにサンタさんからおもちゃをもらったことがあると思います。私もサンタさんからのプレゼントを心待ちにしていた頃。ある12月25日の朝 枕元にプレゼントが置いてありました。

すぐに開けてみると、中には想像もしてない木の板2枚と鉛筆のような6本セットが。

ハガキ大の木の板2枚、彫刻刀セット。

”年賀状を木版画で作りなさい” セットです。

次の日から父の指導の元、木の表裏を使いレイヤーを作り、干支を配置。また文字を書く余白を残した木版の作成に取り掛かりました。

その彫刻刀の切れ味の鋭いこと。

何度も ザックリ とやっています。

木目に逆らわない、手は刃先に置かない事です。(現在綺麗に切ってしまった場合は瞬間接着剤で塞いでしまいます。何事もなかった様に治りますよ)

この時、”サンタさんは居ないんだ” と悟ったかどうかは

父は私が生まれる前から現在も木版で年賀状を作っています。年末の座敷は絵の具の乾燥のため300枚が毎年並べられていますし、それを手伝うのが年末行事。更に面倒なことに、4色くらい使うので1枚につき4回も刷るんです

その年賀状の文言はガリ版印刷で入れていました。今でいうシルクスクリーン印刷ですね。生徒へのプリントや組合報でもガリ版印刷を使っていました。

工芸的な手法が好きだったのか、時代にのれてないのかはわかりませんが、当時すでにプリントゴッコ、写真入れた年賀状はありましたしまた、ワープロ、プリンターも当然普及していました。

父は教員でしたので岩手県内を単身赴任、または長距離で通うことも多く、長期休暇のこの時しか密なコミュニケーションがとれなかったと記憶しています。

岩手 広いですからねー

小学校4年生の図工時間、家から出る食品の容器で船を作るという授業がありましたが、すっかり忘れて何も持参しませんでした。

周りの友達から使わなかったものをかき集め、オレンジのゼリー容器がコックピットの船を作りなんとか形にできました。

授業の終わりに良かった船を評価する時間があり、佐藤先生からとんでもなく褒められなんとも複雑な気持ちになりましたが、嬉しかったのは覚えています。そんな要領の良さもありました。

その船はそこから名前、キャプション付きで図工室の廊下のガラスケースに卒業まで飾られていました。誇らしかった。途中経年変化は見られましたが

小学4年生の時、料理クラブに入り週1回家庭科室に集合。授業時間中の選択制でした。他に何のクラブがあったのか思い出せません。

30人位いた生徒の29人は5.6年生の女子。冷やかし がすごかった。なんで入ったのか?興味があったのでしょうね。

中学校に入り

1年生の美術の授業でまた奴等に再会することになります。平刀、丸刀、角刀…

木製の手鏡を作るという授業でした。
丸い鏡は定型ではめ込んであり、持ち手を削るというもの。勘所がわかっていたのでスイスイと切削、左手で持てるライフル銃のような形状のグリップでポイントは
人差し指が入る穴。今見たら良くないと思います。

ただ、高橋先生からお褒めの言葉をいただきました。


2回の彫刻刀との出会いから、現在も彫刻刀を使う事になるとは思ってもいませんでした。今でも繊細な陶磁器石膏原型は彫刻刀で削っています。

この時、自身の手先の器用さに気づいたかどうかはわかりませんが、図工、美術、技術の授業は大好きでした。

褒めて伸ばされた感あります。良い先生のめぐりあえたもんだ

高校入試で美術系新設校と工業系デザイン科への進学を本気で悩みましたが、”大学に入っても出来るから”という父の助言で、花巻北高(東高ではなく)へ

この高校、バンカラ高校でした。生徒はおとなしく皆、勉強ばかりしてました。

応援団幹部だけはカブいて吠えていました。竹刀を持ったり、代々受け継いだボロボロ、ツギハギ学ラン、長髪か坊主、時代遅れのスポーツチャリに旗をくくりつけ、丸一日掛けて40K離れた球場へ行く、”夜間歩行”という行事など。

入学してすぐ応援団入団式があり大声で自己紹介させられ、泣いてしまう新入生もいました。そこから1週間応援歌練習が続くのですが、抜き打ちで歌詞を当てられ答えられないと罵声を浴びせるという…怖くてすぐ退学してしまった生徒もいるとか。まだ続いてるのかなぁ

小学、中学のように深く仲良くなる友達はいなかった。ただ自分が閉ざしていただけだったのか。クールに決めてました。笑

周りには美術大学を受けるなんて子はいないと思っていたので、理系コースに進み、ハンドボール部に入ったり、試験用紙には某工学部志望と書き込み毎日をやり過ごしていました。他の高校のことは知りませんが 美術 という授業すら無い実業高校もあるとか。美術の事なんて半分以上忘れていました。

3年生の春、高総体も終わり いよいよ受験、ただ机に向かい、工学部入って何するんだっけ?などと色々と考えた時期でした。少々音量大きめでブルーハーツやら海外パンクをよく聞いてました。

”美術は大学に入っても出来るから”

この言葉を思い出しました。

幸いにも本校には 美術 美術部 美術室 美術教師 がいました。

美術のM先生は親身に相談に乗ってくれて。後に教育実習生の受け入れを美術だけで同時期に4人(1人が私)もしてくれるという先生。美術家で未だバリバリです。

実際は美術系大学進学希望者は4人いました。皆で放課後の美術室でデッサンしてました。

無事 美術系大学へ進学。漆芸では肌が弱くかぶれ、(ほんと痒い!空気感染も体験、しっかり治療しないと延々”とびひ”します。)金属工芸では金属アレルギーに。見かけによらず肌弱く、高校から長いこと花粉に悩まされました。消去法で陶磁器専攻に落ち着きました。

今回はここまで

(リンク先の方々使わせていただき、ありがとうございます。)

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