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俺はパソコンじゃない

書くようになってから、読むようにもなった。読むようになると、次に読みたい本がおのずと出てくる。読んでいる本の中に、すでに持っている本が(引用かなにかで)登場するとうれしい。この本、持ってるよ。買って書棚に収めたままになっていることに、読み進めている途中で気がつく。

読んだっけ、読んではいないはず、でも持ってる。書棚を探し、引っぱり出してくると、やっぱり読んでいない。ページをパラパラとめくってみても、なにも憶えていない。読んだ本でも片っ端から内容を忘れていく。気になる箇所に線を引いたり、付箋を貼ったりもしないからな。読書家ならそうすると聞くが、あいにく僕は読書家ではない(シネフィルでもない)。

憶えていないともったいない、憶えていなけりゃ意味がない。そう思ってしまったら、読書はつまらない。いや、「つまらない」ということにしておこう。たくさん憶えていたほうがおもしろそうではあるけれど、読書は単なる情報の「インプット」ではないし、貯蓄でも投資でもない(結果的にそうなることはあったとしても)。

「インプット/アウトプット 」って表現は便利で、自分でも使うことはある。しかし、使いながらも違和感がある。俺はパソコンじゃない。入力して学習して出力する、そういう運動を繰り返すための装置ではないし、読書体験を別のかたちに変換して社会にお返しする、というのもなにか違う。交換の対象にしたくない。「貨幣」みたいに扱いたくない。僕はただ、読書という経験の主体でありたいのだ。

読むようになったからといって、月に10冊読むぞ、なんて決めたりはしない。というか、決めないぞ、と思っている。ゴールを決めた直線的な努力になってしまった途端に、逸脱や停滞が許されなくなるのがいやだ。隙あらば、逸脱したい、停滞したい、ダラダラしたい。

とは言いながら、実際にそうすると「直線的な努力」のつもりはなくとも、多少のうしろめたさを感じてしまう。怠惰なんじゃないかって。怠惰でも別にいいのに。怠惰だってひとつの経験なのに、まるで尊重されることがない。昼寝をしたほうが実は成果が上がりやすい、といった類の話に回収されてしまっては駄目なのだ。それでは怠惰本来の持ち味が死ぬ。怠惰は怠惰として味わいたい。

資本主義の論理のはずれに軸足を置く。なかなか置かせてもらえないけれど、そんなことを日々考える。本を読み、昼寝する。気づかぬうちにインストールしていた「あるべき姿」への抵抗は、怠惰と見分けがつかない。そもそも怠惰を怠惰と思う必要があるのかというところから疑わしいが、「あるべき姿」は随時アップデートされて、僕を逃してはくれない。

そうなってくるともう、俺はパソコンかもしれない。いいや、なにを言い出すんだ、驚いた。読書に疲れてソファーに寝転び、まぶたを閉じると、虹色のひもがゆらめきながら視界に広がる。このまま昼寝になるだろう。起こすときには、どこでもいいからキーを押して。システムの中で夢を見るのはどんな気分か。僕はすでによく知っているみたいだ。

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