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弁論大会のおもいでと見守る子育て論

弁論大会でクラス代表
最近ふと中学生の時の弁論大会のことを思い出した。弁論という言葉の意味も分からないまま何かを主張する文章を書き、発表することがあった。あれは国語だったのか、はたまた道徳だったのか、さっぱり覚えていない。が、体育館で発表して学年代表を決めるほどだった。学校全体の発表もあったのだろうか?そうなると学校主催の弁論大会だったということか。というくらい、記憶が曖昧な大会で、なぜかクラス代表になってしまったのだった。負けた相手のことは覚えているが、相手がどんな内容を発表したかは覚えていない。ただ真面目な内容だったなくらいだ。

そんな弁論大会で何を書いたかというと『漫画』についてだった。正確には『漫画で学ぶことがたくさんある』みたいなことだ。

漫画好きな中学時代
小3くらいから漫画にはまり、月刊誌は毎月発売日に欠かさず購入、なんなら2~3日早く納品される文具店で買っていたりした。本屋でないところがポイントだ。当時はそういうお店がよくあったな。
お小遣いの遣い道のほとんどは漫画だったと思う。小説などの活字はほとんど読まなかった。むしろ読めなかった。漫画に読書好きなキャラクターが出て来て憧れて真似したりすることも多々あったが、読みきれず、読めるようになったのは中学半ばだろうか。小5くらいで、好きな漫画の小説版(コバルト文庫など)が出るようになり、その系列は読めるようになっていたかな。

そんな私の主張は『漫画で学ぶことがたくさんある』だった。
漫画で習っていない漢字が読めるようになる。や、歴史ものを読んで歴史に詳しくなる。など、ありきたりなものを並べながら、人間関係についても学べるなどと書いたかもしれない。そんな弁論がまずはクラスの5~6人からなるグループ内で発表し、そこからクラスで発表し、クラス代表を選ぶという、なかなかしっかりした選出方法で、見事クラス代表になってしまったのだった。

理由は簡単だ。

ギャラリーは漫画を正当化したいだけ
『自分たちの好きな漫画を正当化したい』という希望の現れだ。
中学生まではそこそこ勉強ができた。というより、勉強は嫌いじゃなかった。計算問題はパズルゲーム感覚で、国語は妄想が高じて読み書きは好きだった。そのおかげで、率先して宿題をし、テスト勉強も楽しんでいた。やった分だけ結果は出るとはその通りで、まぁまぁ良い順位だった。
そんな人間が『漫画でこれだけ勉強が好きになる』『勉強になる』などと訴えれば、漫画を読んで叱られてる組は、ほらほら!と言いたくなるだろう。
自分の行いを棚に上げているにも関わらず。
そんな理由で選ばれたものより、もっと真面目にやってる子が選ばれた方が良いのにとぼんやり考えていた。それよりも内容、私の書いた文章を評価してくれと思っていた。

それでも、より分かりやすくするには、と、読み返しては文言を細かく言い代えたりと修正を加えていたり、自分の手で書き出したものにどこかしらプライドだけはあった。結果は先にも書いたように学年代表には選出されなかった。薄々分かっていた。もう自分のクラスの票は稼げないと。クラスの中には3回ほど同じものを聞いているのだ。さすがに飽きてくる。それを見越しての修正だったが、細かいところなんて気付くわけもない。案の定、クラスの誰かが『さすがに聞き飽きた』と発していた。そりゃそうだ。読む方も飽きていた。他の人が読めば変わったかもしれないな。
そして、やはり真面目な題材が万人受けするわけだし、そうじゃないと困ったので、内心ではほっとしていた。そもそも表舞台に立つことから解放された喜びの方が大きかった。

親に口出しされない学生時代
なんで、こんな話になったのだ?
そうそう、学生時代の話をする機会があり、自分の親はよく許してきたなぁと思ったのだ。弁論文に書くほど漫画ばかりだったし、好きにやっていた。
親としては、そこそこ賢い高校に行って欲しいという希望はあったようなのだが、私が選んだのは新設の得体の知れない高校。それに反対はしなかったと思う。あくまで表向きなので、内心はどう思っていたかはわからない。でも妙な信用はあったと感じている。だから反対されなかったのかなと。

自分の親の世代を考えると、もっと『勉強しろ』『就職しろ』『結婚は?』などが当たり前の時代を生きている。それなのに一言も聞いたことがない。とても稀なことだったのかもしれない。と、この機会に気付いた。無関心なだけだったら、元も子もないが(笑)

信じること+信頼されること=見守る子育て
最近、子育てにおいて『見守ること』がキーワードで出る。そこに学ぶことなのかと感じていたのは、自分は口出しされないことが当たり前すぎる環境にいたからなのか。と。
そして見守ってもらうには、弁論大会で『漫画は正義』と認めさせるために必要だった『論より証拠』となるような人間が示してこそ。それなりの『信用』がなければ、成立しないのかもしれない。この弁論大会と一緒にそんなことを思い出した。

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