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映画「JOKER」

予備知識は持たないまま観た感想。


jokerとは

まず、「ジョーカー」の言葉の意味について。

・joke+er= joker (ジョークを言う人)
・トランプのジョーカー
・スラングで「邪魔者」という意味もあるらしい。

個人的な部分にフォーカスすれば悲劇の主人公の物語という捉え方もできるし、抽象的に考えて象徴と捉えれば社会病理を描いているとも言える。

・貧困、格差
・虐待
・病気
・介護
・老い
・障害者
・シングル家庭
・社会保障(社会福祉)
・銃社会

・・・などなど、いろいろな切り口で映画を語ることができそう。

そもそも、妄想と現実が複雑に入り混じっている映画だと思われるので、その線引きをどこに設けるかによって見方がだいぶ変わってくる。

主人公に焦点を当てて観た場合の感想

アーサーの夢

アーサーは、アーサーの名でコメディアンとしてテレビに出演したかったのだろう。
中年になっても、憧れと夢は消えることはなかった。
しかし、皮肉にもそれができなかった。
脚光を浴びたきっかけも、笑わせている彼ではなく、笑われている彼だった。
テレビというマスメディアで栄光を浴びるどころか、逆に大衆の晒し者になってしまった。

幸か、不幸か、彼は自分を客観視した。
そして現実に向き合い、自分の境遇を呪い、社会を憎んで復讐を企てる。
自分の顔に化粧を施し、ピエロの風貌をして、ジョーカーの名を掲げ、「アーサー」を捨てた。
自宅で、マレーの番組に出ている想定の場面、そこで銃を自分の顎下に当てるジョークを演じる。
ここでアーサーは死んだ。退路を断って身も心もジョーカーになったのだ。
マレーの番組に出演したジョーカー。
左目の青いラインが崩れている。涙の痕跡だ。
しかし、マレーはそれに気づいておらず彼を「正義」の剣で追い詰める。
それが悲劇なのだ。

現実と虚構(幻覚)が交じる世界

アーサーが抱えている病気(または障害)の症状の一つなのだろうが、映画の中において明確には現実/虚構が区切られていない。が、少なくとも、女性と恋仲になるのは虚構であったことがわかる。
このような作りにどういう効果があるのかと考えると、その一つは、この映画を観ている者がアーサーの感覚を疑似体験できるということだろう。
幻聴、幻覚の症状を持っている人にしてみれば、それがその人の生きている現実であり日常なのだ。そう思うとその困難さ辛さが少し分かるような気がする。


社会病理として観たときの感想

社会保障制度は社会防衛のためなのか

アーサーは市の予算削減で福祉サービスを打ち切られたことにより、薬を得ることができなくなった。
年金、社会福祉、公的な医療制度などの社会保障制度。
これらは誰のためのものだろうか。
私がまだ学生だった頃に出会った人で「社会保障は社会防衛のため」と言い切っている人がいた。
その頃はそうなのかな、とそのまま受け取る自分もいたのだが、果たしてそれは真なのか。
結果的に同じだったとしても、「社会防衛のため」に社会保障制度を構築するのだとしたらそれって発想が悲しくないか?と思う。
罪人を生まないように、社会の秩序を保つために、富裕層の身の安全を確保するために、そのために社会保障はあるのだろうか。

不自由のない生活をしている人はいくつかの偶然が重なって「たまたま」そうなっているだけで、逆を返せば、不自由な生活をしている人は「たまたま」そのクジをひいてしまっただけかもしれない。
もちろん、変数として本人の努力も関わってくる場合もあると思う。
でも、やっぱりそれだけでは片付けられないよね、とも思う。

生育環境、教育、生まれ持った身体的なもの、出会う人、社会情勢など、条件次第では誰もがジョーカーになる危険性はあるのではないか。
そう考えると、社会で起きている事件(例えば京アニの事件など)は対岸の火事ではない。

むしろ、無かったことにしたい、見たくない、犯人はさっさと処罰しろ、臭いものには蓋をする、このような考え方が危険なのだと思う。


最近気になっていること

SNSやYouTubeなどで誰かが誰かを口撃しているのを見かける。
それだけならまだ「個人の意見、感想」で終わるのだが、影響力が強い人だったりするとそれに追随するようにたくさんの人の「負の感情」が増幅され思わぬ結果をもたらすことがある。
こういう状況に正直、ウンザリしている。
追随している人は「思ったことを言ってくれてスッキリした」という感情なのかもしれない。
その時はそれでスッキリするのかもしれない。
でも、誰かを口撃する(攻撃する)ことで得られる快楽ってどうなんだろう。
ジョーカーの模倣をするピエロたちと構造的には似ていないか、と思うのだが思い過ごしだろうか。

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